跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/05/18 BGM: たま - 夏の前日

今日は早番だった。実を言うと今日、母が職場に来る一幕があった。知らされていなかったので驚いたのだけれど、母と久しぶりに話をできたことはありがたいと思った。思い出すのは昨日の断酒会で、まさにその母のことを話したことだ。母の日にありがとうメッセージを送ったということや、過去に私が「なぜおれを生んだ」となじったということ、そして険悪な関係のままどうしようもないヘビードリンカーとして過ごしていたということ……母の死を願ったことさえあったかもしれない。実に浅ましいことだ。酒を呑みまくった果に、とっとと死んでしまう「夭折」に憧れたりさえしたかもしれない……だが、なにはともあれ自分は40の歳に断酒を始めることができた。そしてそれは無事に今も継続できている。それが可能となっているのはもちろん私一人のせいではない。ビートルズ言うところの「With a Little Help from My Friends」が存在している。そう思うと、今の人間関係に私は実に大きく支えられている。人は孤独では生きられない。人とのつながりはそのまま力、あるいは薬となりうる。そう私は信じられるようになった。

私は結局何ひとつ満足に築き上げることができなかった。家庭を築くこともできなかったし、子どももいないまま人生は暮れていこうとしている。だがしかし、この「私自身」を築き上げることができたとも(屁理屈ではあるが)言えるのだなと思う。私は今、自分自身を誇りに思う。もちろん、パーフェクトな人間ではありえない。隙だらけの、どこにでも居るような人間だ。強いて言えば発達障害があるという意味では人と異なる「特別」な人間なのかもしれないが、それにしたってスーパーマンではありえない。ただ、この私の中には――自慢に聞こえるとも思うが――今まで培った英語力が備わっている。日々、メモパッドに英語でメモを書き日記を英語で書き続けてきて養ってきた英語が眠っている。それ以外にも読んだ本の記憶や聴いた音楽、仕事をしてきたことで体得した知恵/経験知が備わっている。そうした人間として自分は大成した、と自負する。いや、何度でも言うが私はスーパーマンではない。ならばその普通の人間としての自分、凡人としての自分になけなしの誇りを持つ、と語る。

宍粟市国際交流協会が行う英会話教室の知らせが届いた。コロナ禍も落ち着き始め、こうした活動がまた再開されることを嬉しく思う。こうした協会絡みのイベントにも自分は参加できるようになって、人生を華やかなものとして飾ってきたことを思い出せる。今日は夜にいつものミーティングがあり、そこである方がファシリテーターとなって星空をZOOMのモニター/ディスプレイ越しに見るという試みを行った。私は普段は星なんてぜんぜん見ないのだけれど、人間の寿命(せいぜい生きたとしても100年くらいだろう)を超えて100億年という長い単位で星が地球に対してメッセージを放っているということを教わった。最近私は自然の中に分け入って散策を楽しんでいるのだけれど、こうした星空を見ることで癒される心理というのもあるのだなと思う。そして、そうした未知の感覚に触れられるという貴重な機会を実に得難いものだと思った。ありがたい。英会話教室も新しい方と出会える貴重な場として、楽しめたらいいなと思う。

図書館に行き、そこでサルトル『嘔吐』とグレゴリー・ケズナジャット『開墾地』を借りる。『開墾地』を読んだのだけれど、英語を母国語とする主人公が彼にとってのマイナー言語である日本語や、あるいは彼が尊敬する父親が話す言語であるペルシャ語を学ぼうとするという試みを通して「母国語の外へ出る」「自分のルーツを問う」という問題について深く問い直した作品だと思った。時代はこれだけ多様化の傾向にありながら、一方では英語がグローバル言語として君臨することによってフラットに画一化する方向に働きつつある。そんな中で、そうした言葉の外に出て居心地の良いところ(コンフォート・ゾーン)から離れようとする試みを主人公は続ける。私自身、なぜ英語を学ぶのかについて考えさせられた。もちろんこんなシリアスな問題意識など持たなくても、ファッション感覚で英語を学ぶこともなんらおかしなこと、不謹慎なことではないと信じる。だが、そうしたアイデンティティの問題をここまで愚直に問い直したこのコンパクトな小説を私は愛する。