跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/02/13 BGM: Eminem - Lose Yourself

今日は休みだった。朝、総合病院に通院する。そこでドクターと話す。いつもの、毎月に1度の恒例の面談だ。その後薬をもらい、イオンに行って時間をつぶす。ローリン・ヒルのスウィートなソウル・ミュージックを聴きながら片岡義男『日本語と英語』を読み、緻密な論述に唸る。英語で何かを発する時、私たちは「I」と「YOU」という主語で会話を交わす。つまり、自分自身と相手の主体をはっきりさせて、例えば「好き」ではなく「私はあなたが好きだ(I Love You)」といった形でコミュニケーションを築き上げる。そこが日本語での会話との大きな違いだ。日本語では主語、つまり誰が語っているかといった主体は省かれて、往々にしてただ言いたいこと、言わんとすることだけがむき出しの形で残る。もちろん、どっちがいいとかそういう問題ではない。だが対極的な姿勢とさえ言えるものであり、そこが英語学習のキモであり面白みとも言える。

主体をはっきりさせるということは、つまり「個」「私」を明確にさせるということである。「個」に対置されるべきは「公」だろう。ふと以前(かれこれ20年ほど前だろうか)、宮台真司小林よしのりがそうした「個」と「公」について論じていたことを思い出した。このあたりのことはどんな本を読めばいいのだろうか? 私自身もこれを機に1度思い切って勉強して「個」について考えたいと思った。と同時に、「個」をそれだけ明確なものとさせるということは自立しつつ周囲と適切な関係を結べる立場の「大人になる」ということでもあると思ったのだった。「大人になる」ことを説いた哲学……思いつかない。そんなことを考えて、自分自身は果たして「大人にな」ったのだろうかとも考えたのだった。まだガキンチョのままのようにも思う。夜な夜なエッチな動画を漁ったりスナック菓子をコンビニで買い込んでバリボリ食い漁ったりしている自分が「大人」……なんて言ったら叱られる?

昼、近所のお寺に趣きそこでミーティングを行う。実に哲学的なトークを楽しむ。「普通」とは何だろうという話になり、私自身も高校時代に1人で村上春樹イカれて、しかし誰とも話を合わせられず「普通」から思いっきりはみ出した生活をしたことを話す。ある参加者の方のコメントから、私が若い頃は「アダルトチルドレン」の概念が流行して「承認を享受できないこと」の苦しみに光が当てられたことを思い出した。私もそうした「承認」を求めて「普通」を訪ねてさまよい歩いたことを思い出す。話は白熱し、別の参加者の方がこうしたトークに関して「本音を語れば本音が返ってくるものですね」とおっしゃったのが印象的だった。私自身、本音でぶつかることができたと自負している。そして、こうした場や断酒会、その他のミーティングでさまざまな形での「普通」を体感できていることが悪名高い日本的「同調圧力」を回避するための私なりの戦術かなと思ったりもした。ある集団で「同調圧力」を感じたとしても、別の集団に行けばまた違った空気や価値観を味わえてラクになれるというように。

夜、ジョージ・ベンソンを聴きながら鳥飼玖美子『話すための英語力』を読む。鳥飼玖美子に関しては昨日も書いた通り、Podcastでの発言を興味深く聞いていたのでこの本も面白く読むことができた。どうしたってその即興性・アドリブゆえに先が読めない「会話」をどう楽しめばいいか(しかも外国語である英語でだ!)、さまざまなヒント/コツが書かれている。この本では日本人ならではのシャイで無口な態度にならず、しかし下品にもならずとにかく相手に対して自分から言葉を繰り出し、意思表示をすることの重要性が語られていると受け取った。また私自身の話をすれば、私もぜんぜん「口達者」ではありえない。明石家さんまタモリの話芸に憧れつつも「超」がつくほど下手っぴな英語を繰り出しているというのが現実だ。だが、それでも自分から何事かを「提供」「アフォード」しないと始まらないと思っているので「しくじる時は堂々と」と居直っている。今日もさんざん恥をかいた。その昔志村けんが出ていたCMに倣って、「イーンだヨ!」と居直ることにする。