長らく使い続けてきたWi-Fiの機器がついに故障し、パソコンがインターネットにつながらくなってしまった。しょうがないのでグループホームの方に状況を見てもらうことになり、私の方は今日は休みということもあっていつものようにイオンに行きそこで安いキーボードを一台買った。スマートフォンとこれを同期させて使うことでスマホで長い文章を打ち込むことがスムーズにできるようになるというのが狙いだ。その後フードコートに行き、いつものようにサイレント・ポエツやライ・クーダーを聴きながら片岡義男『あとがき』を読む。読みながら、片岡義男が実に力強い文体/肉声で自身の意見を語っていることに唸らされる。彼は言いたいことがある際にそれを遠慮したり言い淀んだりすることなくはっきり自分の意見として、つまり個人の責任をはっきりさせた言葉として放つ。ゆえに彼の書くものは非常に風通しがよくクリアだ。それはしかし日本の読者にどのように受け容れられているのだろう。
素人考えではあるのだけれど、片岡がそのようにしてはっきり自分の意見を築き上げるのは彼のベースにあるのが英語だからではないかとも思う。私自身の実感というぜんぜん当てにならないものがソースになってしまうのだけれど、英語で考えたり語ったりすると(確か片岡も同じようなことを『日本語の外へ』などで書いていた通りに)発言を行う存在である「個」がはっきりした形で立ち上がり、それが「公」に意見をぶつける所作を可能にする。逆に言うと日本語で語ると意見を語る「個」はなかなか立ち上がらず、どこか空気に自分自身を同調させた存在が曖昧に意見を提示する仕草につながる。そこが違いなのかなと思う。ならば、日本語と英語はおそらくそれぞれ、対照的とさえ言える世界に対する態度/アティチュードを私たちに求めると言ってもいいのかもしれない。
もちろん、「どっちがいい」というように簡単に片がつく問題ではないと思う。私は日本人的な「和」を重んじる姿勢も好きだ。でもその一方で英語のようなはっきりした発言が許されて「個」が「公」「世界」と直接対峙するような言語に(ある程度)居心地の良さを感じることもまた確かなのだ。この話題を膨らませていくとそれこそ1冊や2冊の本さえ書けてしまいそうなので、したがって私の手に余る。だが、私は幼い頃から周囲の言葉の表と裏、本音と建前の乖離に苦しみその言葉の曖昧さに悩んできたことも確かなので、英語のコミュニケーションを美化する心理が働いてしまうのだろう。幼い頃、周囲の意見がどうしても理解できず自分自身の言葉もトンチンカンなものとして扱われ、ずいぶん辛い思いをしてきた。その経験が私自身をしてこんな風に素人考えでコミュニケーションの問題に向かわせるのかもしれない。
結局Wi-Fiの調子はよくならなかったので、まあそんなこともあるだろうと思いパソコンに録り込んでいたイーグルスのベスト盤やエリック・クラプトンとB・B・キングの共演盤などを聴きながら片岡義男『僕は珈琲』を読む。この本もまた片岡義男の引き出しの多さを伺い知らせる。オーソドックスに珈琲と片岡自身をめぐるエッセイが収録され、そこから片岡の十八番の「日本語と英語」をめぐる考察が展開され、文学や映画や音楽に関する彼の豊富な知見/知識が披露される。「珈琲」という素材から繰り出されるその文章の多彩さに私自身も珈琲を楽しみたくなり、そして彼の文章の安定感と心地よさを堪能して読み耽ってしまっている自分がいることに気づく。彼の文章と出会えたことは実に幸せなことだと、ライ・クーダーの音楽に酔いながら思った。でも、ここまで書くのなら私はもっと片岡を見習って英語の本も読み込む努力もしないと「男がすたる」というものかもしれない。例えば最近勢いで買ってしまったポール・オースターやテジュ・コールの本など……。