今日は早番だった。昼食時、ライ・クーダーの音楽に親しむ。実を言うとライ・クーダーの音楽はあまり知らない。ただ『パリ、テキサス』という映画で使われている彼の音楽が好きだから、素朴に「浅い」ファンとして楽しませてもらっている。映画に関して、過去にまったく映画を観たことがないまま40歳まで過ごしてきてしまったものでシネフィルとされる人からバカにされたりして、いたく劣等感を刺激されたことを思い出す。劣等感か……それを言い出せば自分は(こんなことを書くと宍粟市市民からお𠮟りを受けると思うけれど)ド田舎で生まれ育った人間だという劣等感、ゆえに東京で流行っているファッションや文化・流行を知らないというコンプレックスをずっと抱えていたのだった。もちろん今はこの宍粟市という土地に馴染み深いものを感じて過ごしている。友だちもいるしサポーターだってたくさんいる。その幸せは揺るがない。
劣等感で思い出したのだけれど、私は何を隠そう早稲田まで行きながらずっと等身大の自分自身を認められず、それゆえに実に肥大した劣等感を持て余して学生時代を過ごしていたのだった。早稲田……時に人は私が早稲田に行ったことに驚き、羨ましいとさえ言う。でも私の心はすさんでおり、閉ざされていた。外国の方と話す機会もあったけれど、そんな時でも自分の英語や引いては日本語にさえ自信を持てず卑屈になり……今思えば恥ずかしい。他人とのコミュニケーションを拒否/拒絶し自分の殻の中に閉じこもったまま、音楽と本を相手に生きていたことを思い出せる。昼休みに片岡義男『日本語の外へ』を読み進めたのだけれど、片岡は私たちが英語を話す時にまさに「母国語の外へ」出なければならないと語っている。居心地の良い日本語から「外へ」出て、まったく異なる英語のシステムに自分自身を馴染ませなければならない、と。これは深い指摘だと唸らされる。
今になってそんな自分の恥ずかしい過去を振り返り、多分にそれは私の若い頃がまだインターネットの実用化が始まったばかりであり、まだまだ国と国を隔てる政治的・文化的な壁がぶ厚かったことも由来するのではないかと思った。だからこそ英語がペラペラな人は「国際派」として持て囃され、その反面皮肉や冷笑の対象となることにもなる。そんなことを考えてふとスチャダラパーの『タワーリングナンセンス』を聞き返してみた。このアルバムの中にはそうした「国際派」をディスった曲が収録されており、今でもその鋭さを失っていない。いや、過去にアメリカやヨーロッパを崇拝していた時代と比べれば確実に世界はグローバル化しており、日本人だって「韓流」に目を向けたりして空気は日々変わっている。だが、ならばなおのこと私は相手をいたずらに美化し崇拝するのではなく、虚心に学ぶ必要があるのだなと思わされる。時代は変わった。だが、私自身は世界の広さに対して謙虚でありたい。
夜、英会話教室に行く。今日のトピックは映画文化についてで、アメリカの映画をめぐる事情と日本の違いを鮮やかに対比された形で教わった。その後、「好きな映画のジャンルや作品は何か」「繰り返し観てしまう映画は何か」という話になり私自身も乏しい知識の中から映画をいろいろ語る。この時期、桜の花が少しずつ咲き始める雰囲気は私に是枝裕和『海街diary』を連想させるというようなことだ。他の方も『スラムダンク』やディズニー映画について話され、実に和やかで有意義なひと時となった。昼に自分が思い出した劣等感に満ちた思い出と照らし合わせてみると自分は「素の自分」「裸の自分」を飾ることなく表に出せていると自分では思う。それはこの日記にも表れていると思うのだけれどどうだろうか。ともあれ、帰宅後また片岡義男『日本語の外へ』を読み、最後まで読み進めて再び唸らされて一日が終わった。この本はやはり名著だ。