容易に知られるように、世界には実にたくさんの英語学習のための方法(メソッド)がある。だから自分にとってどの方法がいちばんしっくりきて長続きする(ストンと腑に落ちて、無理なく続けられる)ものなのか、トライアル・アンド・エラーつまり試行錯誤を経て自分で見つけていく必要がある。だから英語学習は、万人に共通する最適解というものがない、と言っても過言ではない。人によってはシャワーのように浴びる英語だって正解かもしれない。だから英語学習は難しく、抽象的なことがらのように見えてしまう。
ぼくの場合、ふだんはDiscordやMeWeといったサービスを使いそこで他の人にぼく自身の書いた英語を見せて、そして英語でチャット(コミュニケーション)をする経験を積んで学んでいる。そして、自分自身で思いついたアイデアをメモパッドに英語で書きつけ続けている(これは2020年から始めたものだ)。これらがどれくらい効果的なのかまったくもってわからないので、人にたやすく薦めるのも気が引けてしまうのだけれど少なくともぼくの場合は日常生活でまったく英語を使う機会はないので、したがって英語を使う機会を「稼ぐ」ことはできていると思う。また、英語・日本語を問わず「言語化」そのもののトレーニング(修練)にもなっているのではないか。
本の中で、鳥飼はこう説いている。ぼくたちはいたずらにネイティブの語り口・話し方を模倣する必要はない、と(話したいように話せばいいのだ――もちろん話したいことをクリアに、相手に対してわかりやすく伝える努力を怠ってはいけないにせよ)。この意見は刺激的なものだった。というのは、ぼくの発音は実に「純ジャパ」、バリバリに日本人なまりが混じったものだからだ。本書の主張の主眼の1つとはこうした、それぞれが話す英語がその個性ゆえにユニークなもの、尊重されるべきものだということなのではないか?
Facebookのあるグループのチャットで、この本について話題を振ってみた。するとあるプロの通訳の方が、彼女自身の仕事について教えて下さった。彼女は常に学習のための時間・尽力を惜しまず、プロとして地道に創意工夫に励んでおられるとのこと。予習、学習、復習……とどのつまり、ぼくはこうした地道な努力の凄味をこそ学ぶべきなのかなと思ってしまった。もっと流暢にしゃべれるようになるために、日々地道に学ぶべきなのかなと……その意味で、英語の能力とはまた別のことも学んでしまったように思った。