跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/06/07 BGM: Paul Weller - The Changingman

今日は遅番だった。朝、図書館に行き白井恭弘『外国語学習の科学』という本を借りる。ぼく自身、ここ最近はFacebookを通して英語学習のZOOMでのミーティングに参加したり、あるいは英会話教室に参加したりして第2言語の学習への意欲を高めているのだけれどこの本はそんな中にあって実に得難い1冊であると思った。どうやったらより効果的に英語を学べるようになるだろうか? そして「ペラペラ」にしゃべれるようになるだろうか? 日本に住んでいると実にいろいろな学習法やマニュアルが目につき、目移りしてしまいどれを選んでいいのかわからなくなる(なにせ「英語は勉強するな」「英語は3語で通じる」、果ては「英語をシャワーのように浴びる」式のメソッドまであるくらいなのだ)。もちろんこうした学習法の氾濫を軽佻浮薄だと嗤うこともたやすい。でも、考えてみればそうした学習法で実際にうまく行く人も存在するからこそこうしたメソッドは商売として成立しているともいえるわけで、そう考えれば実に外国語学習とは神秘的というか実に深い「沼」だなあと改めて思ってしまう。

白井恭弘のこの本はそんな中で、そんな軽佻浮薄なメソッドとは一線を画し実際的にどうやったら効果的に英語を学べるか解説していく。実にていねいに議論が進められる良心的な本だと唸った。そこから結論だけをサクッと取り出してしまうと「各々の特性を見極めて、それに応じて科学的に学ぶことが大事だ」ということになろうか。根性論に基づいて「とにかくインプットだ」「いやアウトプットだ」と頭ごなしに学ぶのではなく、それぞれの学習者の得意・不得意を見極めてそこからその得意・不得意に応じた学び方を考えていくことが大事だ、というように。ぼく自身ここ最近「やっぱりもっとペーパーバックやニュースの多読を経験してインプットを増やすべきなのだろうか」「いや、今のようにメモを使ってアウトプットに徹するべきなのかな」とあれこれ考えてたので実に参考になる(ところで、ぼくの意見を言えば現実的にはインプットとアウトプットとは分離できるものではなく、もっと「インタラクティブ」に相互が絡み合うものなのだと思っている)。

ぼくの場合は実にルーズに英語でコミュニケーションを楽しみ、英語のメモやこんな日記を通して英語でアウトプットを行っているのが実態だ。だから科学的なアプローチに基づく学習なんて立派なことはぜんぜんやっていない。この本を読んだことはその意味で、自分にとってどんな方法がしっくり来るものなのか考えさせられるいい機会になったと思った……ところで、この本でも少し触れられているのだけれど(話題がコロッと変わるけれど)なぜ英語がしゃべれる人は賢いと思われるのだろうか。この国ではそうした「英語をしゃべれるようになりたい」「英語をしゃべらなければならない」という「圧」がすさまじいと感じる。ぼく自身同僚の方から(もちろんこれはイヤミの可能性もあるけれど)「英語をしゃべれるって賢いね」と言われることがある。おかしな話だ。基本的には学べば確実にしゃべれるようになるのが外国語であり、別の言い方をすれば外国語学習においては「学んだことは裏切らない」「流した汗は裏切らない」というものなのだとぼくは思う。

地道な努力を積み、自分の中で少しずつ実力を高めて成長を実感していく。そして、その右肩上がりの成長を感じられる自分に自己愛を抱く……これはぼくの経験だけを踏まえた話になってしまうのだけれど、結局はその「地道で着実な努力」と「自己愛を育むこと」が外国語のスキルの向上の秘訣だとぼくは思っている。言い方を変えればぼくにとっては外国語学習とはそのままコミュニケーションを通して、ぼくという人間そのものが「変わる」ことだ。もっと言えば「成長」「成熟」へと至ることと言ってもいい……なんだかデカい話になってきた。その意味ではぼくは、英語学習やあるいはぼくが取り組んでいる別のアクティビティ(断酒・読書・仕事など)を通してそんな風に自分の成長曲線を意識するように試みてきたと言ってもいいのかもしれない。常に(日本語が持つユニークな表現を使えば)「土臭く」「泥臭く」自分と向き合い、日々「三歩進んで二歩下がる」自分と向き合い続けることを試みてきたと言えるのかな、と思った。そしてぼくは今日も転がり続ける。