跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/05/14 BGM: The Charlatans - One To Another

今週のお題「おとなになったら」

今日は休みだった。雨に見舞われる。母の日ということで、母にLINEで感謝のメッセージを送った。思い出すのは過去に私がひどく自分自身の存在を責め、恥じたことだ。なんで生まれてきてしまったんだ、と……もし私が生まれてこなければ(あるいは私がこんな自閉症の人間でなければ)、みんなが幸せに生きられていたのだ、と。そう思い、まさに太宰治ばりに「生まれてきてごめんなさい」と思い込んで生きていたことを思い出す。私を育てるのにいくらお金をかけたことだろうか(早稲田はなにせとにかくもデカい大学なので、必然的に学費がかかるのだ)。しかも私は発達障害者であり実にストレンジな人間。両親もこんな育てにくい子を育てることは「無理ゲー」だったに違いない。それはもちろん、私のせいではない。だが、過去に私はこんなおかしな人間であること、クラスメイトたちが織りなす平穏な空気に溶け込めない人間であることを私自身が性根がねじ曲がっているから、「変人」「奇人」だからなのだと思ったのだった。そしてそれは大人になってからも続いたのだ。

そんな風に生きにくい時期を過ごしていた私がインターネットと出会うのは20歳になってからのことだ。それまでの時期、私は学校とも家庭とも違う「居場所」を求めてほっつき歩き、最終的に文学あるいは音楽に救いを見出すこととなる。村上春樹に耽溺し、渋谷系シティ・ポップを聴き漁ってそこからこの狭い宍粟市の「外」にある世界に思いを馳せたのだった。「外」を夢見た。「外」には楽しいことがわんさとある、きっとこんな自分をわかってくれる人だっているだろう……そう思い続けて生き延びたのだった。そして早稲田に通い始め、時代はインターネット時代に入った。だが、私の中には確かなトラウマが残りそれが私を苦しめることとなる。病的な人間不信に苦しんだりもしたっけ。みんなが私を嫌って悪口を言っている、と信じ込み……そして喧嘩腰で人と接する癖が抜けず、友だちを失ったりもした。「おれはひとりの修羅なのだ」と書いたのは宮澤賢治だが、あの頃の自分は実に無表情なアンドロイドでありナイン・インチ・ネイルズ言うところの「プリティ・ヘイト・マシーン(素敵な憎悪機械)」でしかなかっただろう。

図書館に行き、平野啓一郎『私とは何か』を借りる。読み終え、私自身がここ最近感じていた混沌・混乱を整理する本と受け取った。平野は「分人」という概念を生み出している。これは1人の人間の中で分解されうる人格/ペルソナのことで、つまり私なら「英語をしゃべる私」「音楽好きな私」「読書好きな私」と数多くの「分人」を保持しうるということだ。そしてそうした「分人」には「これがほんとうの『私』」はない。「分人」たちは確かなグラデーションの中にあり、そのグラデーションの中でゆるやかに私は変化しうる。私は1人で部屋の中に居る時はこうしてシャーラタンズを聴いて悦に入るが、友だちと出会えばもっとシャキッとした人間に「自ずと」変わる。だがそれは「ほんとうの自分になった」からではない。どちらも「ほんとうの自分」で、外からの作用によってそうして可塑的に変わることの内にこそ自分自身の驚異が潜んでいるのだ……とこの本の結論を受け取った。なかなか深い本だ。

夜、マシュー・ウィリアムズ『憎悪の科学』を読み終える。これは力作だと思った。日本も含めたさまざまな国で起きたヘイトクライムについてつぶさに調べ上げ、数々の実験データを駆使して「ヘイト」という感情・情念について語らんとしている。私自身のことを思う……私もまた上に書いたような人生を経て、「ヘイター」「エネミー」として生きていた。私がハマったのは極左のいかがわしい思想だった。その思想が万能包丁のように思われて、それに染まることで何でもかんでも整理できて他人や世界が端的に愚民たちの集まりのように思われた(裏返せば私はまさに選民思想に染まったとも言える)。そんな私自身の(ことによると今でも巣食っているかもしれない)不寛容・攻撃性について教えてくれる実に得難い本だと思った。私は日々、本を読みネットで英語を学び異質な他者の存在と触れ合っている。そうした「学び」が自分自身を「ヘイト」から遠ざけているのかもしれない。いや、これはややもすると「私は賢いから『ヘイト』には染まっていない」という「手前味噌」「自画自賛」で終わりかねないことなので気をつけてかからなくてはならないことでもある。なんとも剣呑なことだ。