跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/04/20 BGM: Momus - Marquis Of Sadness

今日もあまり気分は良くなかった。朝、日記を書くもスムーズに言葉が出てこない。苦行に感じられたのだけれど何とか言葉を書き連ねる。何人かの方からメッセージをいただき、それがもちろんほんとうに嬉しく感じられた。自分自身に誇りを持つこと、自分自身の多面性・多様性を受け容れること……それがしかしなかなかできない。いや、普段ならできるのかもしれないけれど今は自分自身に対して繊細/過敏になりすぎているようだ。浅田彰を読み返す。彼は人間をパラノ型とスキゾ型に分けてパラノ型の人間の弱さについて語っている。蓄財する人間、一箇所にとどまって自分自身のアイデンティティ固執する人間(パラノ型)ではなく、その都度アイデンティティセクシュアリティの責任や重責から「逃走」し自由に生きる人間(スキゾ型)の優位について。それが私自身の持つ問題への答えになるのだろうか。まったくわからない。

まったくわからないが、でも私は私自身の中にあるアイデンティティセクシャリティについて1つの見方を授かったことは確かだ。私の中にある女性性、私の中にある強さや弱さ……そう考えていくとこの私とは実に深遠な存在ということになる。だが、そこから考えが及ばない。深遠であると同時に、その私は人によっていろいろな色合いを表すプリズムのような存在でもあると思う。私が見る色と他人が見る色は違う。他人は私の中に、まったく未知な私を見ているのかもしれない。浅田彰なら「そんな自分に責任は持てない」と「逃走」するのかもしれない。「逃走」し、その都度、その瞬間ごとに自分自身を状況の中に投げ込む。瞬間にすべてを賭けるギャンブラーとしての生き方。そうした生き方を自分も全うできるだろうか、と考える。仕事に入る。そして仕事をこなす。仕事に入ると自分自身を忘れられる。皮肉なことに。

そして大元にあると思われる問題について考える。それは、私がとある女性に惹かれていることから来る問題だ。だがそれはアニメのキャラクターに「萌え」を感じるのと大差がない。ならばその「萌え」とは何だろう……いや、その「萌え」が恋の原動力になりうるのだろうか。すべてはそうした他愛のない「萌え」から始まりうるのだろうか。私はかつて、恋について論理的に整理しようとずいぶん頑張った。それはフィクショナルな「様式」によるもの、過去にスノッブな貴族たちの遊戯として始まったものだという説を読んだことを引いたりして……そうすることで自分が恋愛という概念の重力から自由になれると信じていたのだった。だが、私は自分の本能から自由になれそうにない。ソウルメイトを求める心、そこから肉欲を求める心……そこから自由になれそうにない。

夜、いつものミーティングをわがままを言ってお休みさせてもらった。そして自分自身の心を整える。何も読まない……そして、ただ自分の中にあるもやもやを吐き出すことを試みた。Discordのサーバで吐き出すことを試みる。小説にならないだろうか、とまで考える。人はこれを「恋の病」と呼ぶのだろうか……もう48歳になろうかというのに、私は恋のことはまるでわかっていない。幼稚な感情に振り回してしまっている。橋本治が「恋をすることは未熟/未完成な自分を壊すことだ」と言っていなかっただろうか。ならば、私はこの恋を通して自分自身を再構築していることになる。がゆえにつらいわけだ。ならば、その私はきっともっと大きな、もっと豊かなものになりうる。変わることを恐れてはいけない、と自分に言い聞かせる。自分はもっとすばらしい人間になりうる。その可能性は存在する……。