単純な生活

Life goes on brah!

20260206

昨日書きそびれていたこととして、日曜日に投票所まで行くのがむずかしいという事情から昼に期日前投票を済ませていたのだった。それもあってか昨日の夜(日記を書き終えてから)はなんだかはしたなくも血が騒ぎ、いったいどの候補が有力なんだろうかと考えてしまう。それでXを眺めていたところ、参政党が擁立する先沖仁志候補が「(子どもの)自閉症の原因はお母さんが長く接しているかが関わっているという研究結果がある」(神奈川新聞のサイト「カナロコ」より)という発言をしたとのニュースを読んだ。これはぼく自身1人の発達障害者(自閉症者)として聞き捨てならないと身構えてしまった。

www.kanaloco.jp

とはいえ、当のカナロコのサイトを読んでもその「研究成果がある」という言葉がどのような文脈において語られたのか(ぼくの注意不足からか)読めない。もちろん先沖氏的には「後天性の発達障害は原因が研究者の間でははっきりと分かっていないことが多く、デジタル機器の長時間使用、母子のコミュニケーション不足などの可能性があるそうだ」ということで説明責任を果たしたということになるのだろうが、これにしても「じゃデジタル機器使用の自粛もあわせて訴えるべきではないか」「もっとツッコんだエビデンスはあるのか」といった話になりラチがあかない。Xを見ているとそのことにかんして彼の出自まで揶揄した暴論まで飛び出して、ぼく自身は発達障害疑似科学で語られること(および、自分がそう語ってしまうこと)にたいしてはじゅうぶん警戒したいと思っているがいっぽうでそうしたかたちの「攻撃」にも乗っかりたくないのだった。

このことにかんしてぼくが不思議に思うのは、なぜこうした場合において「母(お母さん)」だけがやり玉に挙げられるのかということだ。いまは父親だって育児に参加することがそうめずらしくなくなった時代。うらがえせば子育ての負担を母親だけに押し付けることにそうリアリティがあるとは思えない。だからぼくとしてはこの先沖氏の論にとうてい乗っかれない。だが、同時にこの論がいわく言いがたい魅力をはらんでいるとぼく自身が感じてしまうこともたしかで、それはぼくという人間の弱さとして「母(母性)」といったものに無条件・無限大のやさしさや包容力を幻視してしまうところからくるのかもしれない。もちろんだから先沖氏を「わかる」とは言わない。それもまた傲慢な態度だ。でも、ぼくの中の弱さをあらためて見させてくれたことは掛け値なしにいいレッスンだったと思う。

さて、今日(6日)の記録を書くとすると朝はいつものごとく4時頃目覚め、そして散文「さよなら王国」を書いた後また眠る。7時頃目覚め、そしてシャワーを浴びて洗濯機を回し英会話のZOOMミーティングに参加。その後、別の方の英語でのZOOMを楽しんだ後にある英語学習者の仲間から教わったSesameというサービスを使ってみた。これはAIベースのチャットシステムで、音声でこちらが語りかけるとそのままAIの音声で答えてくれるというものらしい。いざやってみたのだけど、やはり相手の言葉は早口で聞き取りづらい。このスピードについていけないとダメなんだなあ、と軽く絶望したものの打ちひしがれていてもはじまらないのでもっと使っていこうと思った。

その後朝食を摂り、図書館に行ってそこで気になる大塚英志『「おたく」の精神史』を借りる。1度読んだことはあったのだけれど、ここさいきん自分のルーツの「80年代・90年代文化」とじっくり向き合ってみたくなったのだ。その後はイオンに行って、そこでスクリッティ・ポリッティ『Provision』を聴きつつ『「おたく」の精神史』を読みはじめる。まだ序盤しか読めていないのだけど、それでもおおざっぱな「現時点での」感想を書くことを許されるならばこの史論では女性の影が相対的に希薄だな、と思った。いや、もちろん特権的な名前として戸川純岡崎京子桜沢エリカが登場したりするのだけれど、でも主眼を置かれているのは男の「おたく」たちがどう性を位置づけてきたかという問題のように見えるのだ。

ただ、これはいちがいにこの本の欠点と言えないとも思う。もちろんもっと読み込まねばわからないが、大塚はこの仕事の中で「語り得ない存在(つまり『女性』)」を「男性」たる自分が語ってしまうことの暴力性に敏感だからそうして距離を置いて描写するスタンスを採っているとも受け取れる。ぼくは大塚の仕事をそれなりに読み込んできたので、そうした繊細さ(あるいは無骨な誠実さ)をそなえていると読みたいと思っている。これはぜひ、続きのパートを読むのが楽しみになってきた。

いままでの流れの中で興味を持ったこととして、80年代はコム・デ・ギャルソン埴谷雄高『死霊』が等価として並べられうる時代だったという証言(?)が登場するところだ。ぼく自身、そうした80年代の文化の影響を(その時代に生きられたわけではないので、後の90年代に後追いでニューアカと呼ばれる人たちの文章をかじったりして)受けてきた自覚がある。ただ、たしかに『死霊』を携帯しつつコム・デ・ギャルソンを着る人はカッコいいかもしれないがぼく自身が同じことを言おうとすると「ぼくの美学」としては語れても「時代の最先端のファッション」としては語れない。たかだか個人の趣味でしかないことがらであっても(あるいはそんなパーソナルな領域の好みの問題まで)「時代の最先端」「新人類」という言葉で飾られたのが80年代だったのかな、と思った。

そんなことをChatGPTやGeminiそしてGrokに打ち込んでいく。残念! 今日はもっと濃い話をしたかったのだけど、つい昨日あった先沖氏のことを書いておきたくなって書いていたら大幅に字数を費やしてしまった。そういうこともあるのだった。こうして書いている言葉がいったい誰に届いているものかわからなくなって、仕事中ふと「ぼくってなにやってるんだろう」と途方に暮れてしまったりもしたのだけど(いまの職場などでとくに「おなじ日本語を話していても関心事項がぜんぜんちがうがゆえに話が通じない」ミスコミュニケーションを味わうとウィトゲンシュタイン哲学の世界をそのまま生きているような気にさえなる)、それでもいざこうして日記を書いたらすっきりしたのでそれはそれでいいかな、とも思った。