単純な生活

Life goes on brah!

20260208

海図と航海日誌 (SWITCH BOOKS)

海図と航海日誌 (SWITCH BOOKS)

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今朝、4時頃目が覚める。いつものように散文詩「さよなら王国」を書いた後ふたたび眠り、気がつくと7時だった。こうした生活パターンが定着してきている。もちろん睡眠はだいじなのでこのことは先生に伝えようと思った。7時に起きてからはいつもどおり。まずシャワーを浴びて洗濯機を回す。その後、外の天気をたしかめて雪模様であるとわかり今日は早目に徒歩で出勤することを決める。7時50分から英会話のZOOMミーティングに参加する。

毎週日曜日はとくに話題を設けないフリートークの日。今日ブレイクアウトルームに集まった面々と話をすると、ぼく自身がいつもにも増して圧されてしまってうまく話せないで往生する。話されているトピック自体はぼく自身興味ある(他人事とは思えない)「発達障害からくる感覚過敏(とりわけ聴覚過敏)ゆえに外を歩く時苦労する」という話題で、ぼく自身も「スーパーマーケットなんかで買い物する時、発達障害者の中には過剰な音や棚に陳列された商品の多さゆえに混乱する人もいるそうですね」ということを言いたかったのだけどこれがむずかしい。もちろんその原因はぼく個人に由来するもので、たんに空気を読みすぎるところにあるのだけれど。何年経ってもZOOMは慣れない。

その後朝食を摂り、徒歩で職場に出勤する。そして仕事をこなす。昼休み、いつものようにChatGPTやGemini、Grokと対話をかさねながら自分の考えていることを整理していく。今日考えていたことの1つはこんなことだった。ChatGPTやGeminiやGrokといったAIはサービス精神ゆえかぼくについて「知性がある」「哲学のセンスがある」的なことを言ってくれたりする。それはもちろん本気でありがたいと思うのだけれど、でも思い起こしてみればぼくは哲学書を読むようになったのはここさいきんのことで、そんなに昔から哲学を専攻しようとかあるいはむずかしい批評を書いてやろうとか思ったことはないのだった。せいぜい稲葉振一郎ナウシカ解読』を読みふけったり、あとは東浩紀の文章に感動したりしていたぐらいである。

20代はそんな感じで、流行っている哲学(永井均『〈子ども〉のための哲学』や『翔太と猫のインサイトの夏休み』、中島義道『哲学の教科書』あたり)に触れてそのうわずみの部分を味わったりはしたけれどそれからもっと専門書や原書を読み込んで自分なりに血肉化させようと思う気にはならなかった。その理由は単純で、ぼくはもともと小説家になりたい(文学方面に進みたい)という欲が強かったのとあとは「学校でみっちり哲学を勉強したわけでもないぼく(具体的にはカントもヘーゲルもまったく知らない人間)に哲学がわかるわけがない」と見切りをつけてしまっていたのだった。

それでもおかしなもので、生きていると哲学的な問題にぶつかることは多々ある。あるいは知らない内に哲学的な問題を「身体をともなって生きて」しまっていることだってある(たとえば――完全にわかったとは口が裂けても言えないけれど――それでもぼくがアルコールに溺れて毎日呑んだくれた時期をふり返ると國分功一郎の語る「中動態」の理念がわかるような気がする)。アドルノが問うたような、「アウシュヴィッツの後に詩作をすることは野蛮なのかどうか(その「アウシュヴィッツ」はほかのできごとも代入できないか)」といった問い。あるいはそれこそカミュが『シーシュポスの神話』で問うたような「真にだいじな哲学的問題は自殺が妥当か否か(自殺は許されるか)」という問い。そんな問いたちとぼく自身、これまで生きてきて幾度となくぶつかってきた。

40の歳、断酒に成功してそれ以降は断酒会通いを続けながら自立を目指して奮闘する。その際にメンターの方か当時のグループホームの施設長だったか、誰かに「あなたの考え方は哲学的だ」と言われたことがきっかけで「短い人生、これ以上哲学をこわがって逃げていてもしょうがないか」と思ってそれでいろいろかじってみることにしたのだった。あれからまだ10年そこらしか経っていない。まだまだ道はけわしい。読んだはずのウィトゲンシュタイン論理哲学論考』にしてももちろん尽きないおもしろさがあるし、ほかにも気になる哲学者はさまざま。東浩紀の新刊『平和と愚かさ』だって積んだままだし……。

さっき書いたように、ぼくはもともと村上春樹柴田元幸といった作家・翻訳家の仕事やほんのすこしのライトノベルをとおして「作家になりたい」という野心を煮えたぎらせていた。そんなぼくにとって畑違いに感じられた哲学者をいま読んでいるんだから、世のなかというものはわからない。ぼくの関心はこの両者(つまり、文学などのポップカルチャーと哲学のあいだ)を架橋する仕事をしている人たちに向いている。具体的に言えば宮台真司の映画評論は好きでよく読んできたし、保坂和志の小説をとおしてハイデガーニーチェに目を向けたいとも思った(どちらもまだ本格的には読み込めていない)。

ぼくの書くものはいったいなんなんだろう、と考える。この日記にしても散文「さよなら王国」にしても、やっていることは軽い(?)エッセイであってそれ以上でも以下でもない。ぼく自身は政治や倫理、自分の生活やそこから出てくる愚見にたいしてフェアな態度で書くことを目指すのみだ。自己分析はあまりみっともいいものではないが、キャッチーなものというか人目を引くものは書けそうにない。それでいいんじゃないか、とも思う。山のてっぺんを目指すだけが人生じゃない。沢木耕太郎だったかの受け売りになるが、ふもとで花や川面の美しさを愛でる人生があってもいいと思う。そんな人生をまっとうしたい。

そんなことをプロンプトとしてAIに打ち込む。今日は雪のせいで相対的にあまりいそがしくなく、したがって5時になるとすんなり帰ることができた。帰宅途中図書館に寄り、そしてグレアム・スウィフト『ウォーターランド』を借りる。帰宅後、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーを聴きながら池澤夏樹のエッセイを読む。彼が影響を受けたというロレンス・ダレルアレクサンドリア四重奏』もこの機会に読むべきか……池澤の『海図と航海日誌』を読んで以来、この本のことが気になっているのだった(恩田陸ロレンス・ダレルに影響されたのではなかっただろうか、と発想が広がっていく……)。