跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/03/25 BGM: Tears For Fears - Shout

今日は早番だった。昼休み、自分自身の人生を振り返ってみる。私の人生はとどのつまり発達障害というラベリング抜きには語れない。この発達障害のせいで子どもの頃からずいぶん損ばかりしてきた人生を歩んできたと思う。それで一時期は発達障害アイデンティティと密接にくっついて、何でもかんでも「自分は発達障害者だから」と思い込み、「発達障害者は冷遇されている」とばかり考えていた。愚かだった、と今ならきっぱり言える。今は発達障害のことは、多様な自分自身のアイデンティティの一部であると思っている。私の中にはもっと複雑なアイデンティティが存在している。ヘテロセクシュアルな男性であること、日本人であること、ハルキストであること……発達障害を背負い込む必要はない。発達障害にまつわる困りごとは確かにあるのだけれど、それに汲々として白黒思考で生きるのもバカげていると考えるようになった。

2007年に私は発達障害者かどうかを見極める検査をして、その時に自分のIQを知った。それをつまびらかにするのは私の趣味ではないので控えるが、つくづく「世の中は不公平だな」「こんなIQという数字に振り回されたくないな」と思った。今日、私の知人(その人曰く彼は「ギフテッド」らしい)が「高IQ寄りの人達が幸せに暮らせる社会づくり」を訴えているのを見かけて、げんなりしてしまった。たかだかペーパーテストの結果でしかないIQで人をジャッジすることがどれだけ非人間的かわからないのだろうか、と思ったのだ。少なくともこうしたIQを過剰に偏重してそこから特定の人々を優秀と褒めそやす思想と、歴史上さまざまな形で惨禍を及ぼしてきた優生思想の間に私は相違を見い出せない(誰かを「優れている」とジャッジすることは、自動的にそれ以外の人を「優れていない」という形でジャッジすることにもなるのだから)。

私は決して賢い人間ではありえない。少なくとも、私は自分が物事を考えたり感じたりする際に自分の賢さを頼ったりしていないつもりだ。何でもかんでも即座にレスポンスする賢さを競う趣味も持っていない。私は人工知能ではないので誤謬を孕んだ危うい思考をしてしまう。ミスだって山ほどしてしまう。それが私が人間であるという事実の意味だ。そんな人間としての私はヒューマニティを信じる。人工知能と自分が異なるところの1つは、そうしたヒューマニティに基づく優しさがあるという点ではないかと思っている(いやもちろん「私は優しい」と語ることがどれほどうぬぼれていて、端的にはしたないかわかっているつもりではある)。そんなことを今日はTwitterを通して思った。賢くはないかもしれないが、過去の人生で培われたヒューマニティを信じ、ミスを恐れず自分に忠実に意見を表明する。そんなことを今日は実践したいと思ったのでこんなことを書いてみた。

仕事が終わり、グループホームに戻る。今日は結局昼にこんなややこしいことを考えたせいか読書もはかどらず、日野啓三の短編やエッセイをいくつか読んで終わってしまった。ブライアン・イーノや広瀬豊を聴きつつ……日野啓三ブライアン・イーノについて書いているエッセイを読み、J・G・バラード『結晶世界』について触れられているのを知り『結晶世界』は未読であることに気づく。まだまだ未読の作品がこの世には数多とある……これから自分は何歳まで生きられるのだろうか。皆目わからない。この桜だってあと何回見られるか……と考えるにはまだ早いか。とはいえ常識的に考えれば自分は「折り返し地点」には来ていると考えるのが自然であり、ここまでの人生で学んだことをこれから活かして優雅に年老いていくべきなのかな、とも思う。そう考えれば人生というやつはうまくできている、とも思う。これまでは蓄積、そしてこれからは実践。私は「無芸無能」な人間だが、「それなりに」生きる。