跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/05/06 BGM: Masayoshi Yamazaki - パンを焼く

今日もいつものように、メモパッドを取り出してそこに英語でメモを書く。この英語のメモを自分で読み返してみて……私は時折、自分がこうして書いているメモがまったくのナンセンスというか、デタラメなのではないかと怖くなることがある。私自身の眼から、これらの英語がネイティブにとって意味を持ちうるものなのかどうかはついにわからない。なので今日もDiscordやMeWeにこのメモを撮った写真を投稿して、そうしたネイティブの方に読んでもらう。私はこうした問題に関して、ウィトゲンシュタインに共感を持つ。彼も(難しいところはまだ私自身わかっていないのだが)こうしたコミュニケーションの問題について深く深く考えて、それを哲学にした哲学者だった。言葉が通じるということの神秘……私なら私がこうして自分の書いたものを読み、それが何なのか理解できるということ。その言葉の魔力や底力についてウィトゲンシュタインは考え抜いたのだった。その執念を尊敬する。

このメモを読まれた方から、「quirky」という言葉をいただいた。これは「へんてこりん」だけど「素敵」という複雑な様子を形容するための言葉らしい。私も、日本人でありながらどうして英語でわざわざメモなんて書くのか変だなと自分のことを思ってしまう。こんなことを始めたのはほんとうに「戯れに」としか言いようがない。日本語でメモを書いていてもそれが自分の中で腑に落ちず、定着することがなかったのに戯れに英語で書いてみたらストンとハマったので続けているという、それだけの話なのだった。発達障害を見極める検査をした時に私は言語能力が高いと診断されたのだけれど、それがこうした「quirky」な振る舞いに現れているのだろう。そういう人間だから毎日毎日狂ったように本をたくさん読み、それを基にこうして日々日記を書きいろいろなことを考える。だが、それを言い出せば「quirky」でない人間なんて居ないとも思うのだ。それは単なる私自身、1人の発達障害者である私自身の居直りに過ぎないのだろうか?

Japanese graffiti

Twitterを久しぶりに見ていて興味深いツイートを見かけた。自分自身が発達障害者であることについてである。起こるトラブルというか確かな生きづらさを発達障害のせいにする。それは大事なこと(もしくは必要不可欠な作業)なのかもしれない。だが、そこで止まってしまうと進歩がなくなる。発達障害を「所与の条件」として、「そこから」どう事態を展開させるべきか……私自身「自分は発達障害者として生まれたから不幸で、全ては『手遅れ』なのだ」と絶望していた時期があったのだけれど、そんな状況からでもできることがないだろうかと最近は考えるようになった……その「できること」の一環として英語を学び、本を読み日々「学び続ける」。開高健だったか、「たとえ世界が明日滅びるとしても、私は今日、リンゴの木を植える」と言ったのは(ルターの言葉とも言われているそうだが)。不平不満を言うことも大事かもしれない。だが、それだけで終わるには人生は短すぎる。

https://twitter.com/PeaForNei_alpha/status/1654304353321377793?s=20

今日は早番だった。夜、いつものように優雅に読書タイムとしゃれこもうかと思ったが落ち着かない。さまざまな本に目移りしてしまう。久しぶりに青山真治の日記を読み返したりして、オーガスタス・パブロを聴き返したりかと思えばドビュッシーやサティを聴いてみたり……日々、実にこんな感じで好き勝手に生きている。自分の日記を戯れに読み返し、実に「ゴーマンかまして」生きているなと呆れてしまったり。英語を学ぶようになって、自分の脳が生み出す戯言が人に通じることの喜びを感じられるようになり、それがそうした「ゴーマン」と映るほどに自分自身に対する自信をつけてくれるようになったのだと私は自分を分析する。裏返せばそうした「ゴーマン」の底にあるのはほんとうに弱っちい自分自身でしかないのだった。言語学習は「たましい」(河合隼雄)を救う。そんな確かな手応えを感じる。皆さんも自信をつけるために英語を学んではいかがでしょうか、とオススメしたい。