跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/02/18 BGM: Daryl Hall & John Oates - Private Eyes

ダリル・ホール&ジョン・オーツをランダムに聴きながら片岡義男『言葉の人生』を読む。彼の鋭い眼光が捉えた、この世に氾濫する言葉――私自身もその「氾濫」に確実に加担している「言葉」――の実相を片岡は見抜き、彼自身の人生経験を参照しながら考察を重ねていく。数多と存在するカタカナ語和製英語、死語や伝統的な言葉など。私自身も言葉に関して考えるのが好きなので彼の考察を興味深く読む。日本語という言葉がいかに海外の言葉/概念をスラスラ取り込み自分のものにしてしまうか(その帰結がカタカナ語の嵐であるだろう)、私自身彼の文章を読みながら改めてまざまざと思い知らされた。とはいえ私はそうした言葉を使うことをやめられそうにはない。いくら海外では「ソーシャルメディア」と呼ぶものだと言われても私は日本語圏内ではTwitterFacebookといったメディアのことを「ソーシャル・ネットワーキング・サービスSNS)」と呼んでしまうのだろう。

今日は早番だった。朝、ロイド・コールを聴きながら仕事前の準備をする。ふと、こうしたこと(上に書いたようないつも読んでいる本や聴いている音楽、思っていることなど)を英語でメモしながら「どうして自分は英語でメモを書くのか?」と考えた。真面目に答えるとすればそれは「自分の性に合っているから」となる。別に私が人より賢いからとかそんなことではまったくない(本音です)。聞くところによると人間は日本語的に考える人と英語的に考える人で別れるらしいので、私はたまたま英語的に考えるように生まれついたというそれだけのことだと思っている。コロナ禍が始まってまだ間がなかった頃東急ハンズで見つけたメモパッドに、戯れに英語でメモを書いてみたらそれがしっくり来たので続いている。そういうことだ。

いつもこの日記では恨みつらみやぼやきを書いている気がするが、今日も昼休みに「自分は出世しない側の人間なんだろうな」と思った。村上春樹が流行らせた比喩で言うところの「壁と卵」における「卵」なのかなと。ずっと生きにくい思いをしてきた。十代の頃は自分がすっぽり悪夢に覆い尽くされているように思い、ティアーズ・フォー・フィアーズの曲よろしく「マッド・ワールド」の中に閉じ込められているように思ってそんな悪夢をひたすら村上春樹を読み込んで過ごした。大学に行けば……東京に行けば自分は幸せになれるとどこかで信じて。でも果たして大学に入った後、東京で待っていたのは「自分はいったい何をしたいのだろう」という空虚感だったことを思い出す。狭苦しい田舎からいきなり東京に出たのだからそんな変化に、特に発達障害というやっかいな障害を抱えた人間がすんなり適応できるわけもなかったわけで、鬱を抱えてひたすらアパートの一室で寝込んだことを思い出す。それからもいろいろあり……よく生き延びたものだ。

ホール&オーツの音楽は佐野元春の影響で聴くようになったのだけれど、実に私の今の感情にフィットする。世の中、知らない音楽がまだまだある。今の世の中は何でもフラットに並べられた中から選べるようになっており、私はそれをいいことに昨日はソニー・ロリンズを聴き今日は​TOTOを聴くという生活をしている。図書館に行けば今日のように片岡義男を読む一方でレイモンド・カーヴァーを読んだりする。いったい私の頭の中はどうなっているのだろう。歴史なんてどうでもいい、ルーツや伝統クソ喰らえ。ただ聴きたいから聴く。そんな感じで今日も順調に本を読み音楽を聴いて、こうして自分の思いを書き出してしまうのだった。とどのつまり自分は「雑種」なので、純血の「ハルキスト」や「リベラル」にもならないまま、なろうともしないまま、生きる……。