今週のお題「メモ」
いつも私はマルマンというメーカーのニーモシネというメモパッドにメモを書いている。コロナ禍が始まった頃、私は姫路にある東急ハンズでこのメモパッドを買いそれにメモを書くようになった。少し人と違うとすれば、それは英語でメモを書いているところだろう。人からなぜ英語で書くのかと尋ねられることもあるが、私もなぜだか確かなことは言えない(ちなみに私は留学経験はない。大学では英文学を学んだが、裏返せばそれ以上の勉強はしていない)。ただ前に教わったのは日本語より英語で物事を考えるのが向いている人が存在しうるということで、ならば私も憚りながらその1人なのかなとも思う。その昔ダイソーで買ったメモパッドに日本語でメモを書いていた時期もあったがぜんぜん続かず、戯れに英語で書き始めてみたらストンと腑に落ちたので続けているという、私の主観から見ればそうしたどうってことはない事情によるものだ。そして現在もTOEICを受ける予定もなく、ぼんやり英語の鍛錬を続けている。
今日は休みだった。朝、イオンに行きたまには気分を変えてみようかと以前に衝動買いしていたマニュエル・カステル『Communication Power』という本を読み始める。これは実は英語のペーパーバックで、台湾の政治家オードリー・タンの愛読書ということでスノッブな私は興味を惹かれて手に入れたのだった。だが、さすがに慣れない英語の原著は手ごわい。やはり私は自分のレベルに合わせてもっと平たい英語の書物を読むべきかと自分の負けを認めざるをえなかった。裏返せばもっと成長してからじっくりこの本と向き合うという楽しみが1つ増えたのだとも言える。以前に買い求めていた村上春樹『ノルウェイの森』の英訳やポール・オースター『ムーン・パレス』を読もうと決意を固める。学問に王道なしと言う。ことに語学の勉強の場合、成長を焦ってはならない。日々の鍛錬が確実な成長を保障する。少なくとも私の経験はそう語る。凡事徹底の心意気で改めてDiscordで鍛え直すことを誓った。
日曜日は忙しくて選挙に行く暇もないので、今日県議選の投票を済ませる。デヴィッド・J・チャーマーズ『リアリティ+』を読み進める。議論がフェイク・ニュースの話題に入り、私自身がフェイクに騙されている可能性(つまり今この瞬間「まやかし」を信じているという可能性)について考えさせられる。この場合厄介なのは、私自身の中に「まやかしを信じたい」「騙されたい」という気持ちが存在しないとは決して言い切れないという事実だ。ならば真偽をどう見極めればいいというのか。私はただ日々、直感を鍛えて「胡散臭さ」を嗅ぎ取る鍛錬を積み重ねることしかできそうにない。思えばコロナが流行り始めた頃「インフルエンザの方が危険」という言葉に危うく騙されそうになったし、ワクチン接種をめぐってもさんざん迷った挙げ句受けたのだった。そして厄介なのは、その選択が絶対的に正しいかどうか今もってなおわからないということだ。私が死んでから証明される可能性もゼロではない。
夜、暇を持て余し上野俊哉『思想家の自伝を読む』を読む。この本の中で上野俊哉が「自分探し」の陥穽について語っている。自分というものにベタに興味を持つのではなく、その自分を相対化させ「壊し」さえする他者の言葉と向き合う必然について。本書はその一環として「思想家の自伝」との出会いを薦めた1冊だ。私自身、自分が発達障害者だとわかったばかりの頃「自分は発達障害者だ」と言い募り、その属性を一枚岩のアイデンティティとして捉えていた。だが、私の中にはたくさんのアイデンティティがあるのもまた事実だ。時には相反するアイデンティティに引き裂かれ、矛盾や破綻を露呈させることだってある。ならばそうした矛盾や破綻にこそ率直に向き合う必要があるのかもしれない。そうした己の中の多様性を無視して生きることは端的にリアルではないのかな、とも思う。私は英語を学び海外の文化を楽しむが、同時に寿司やミソスープを楽しむ国粋主義的な一面をも持ち合わせている。なら「これでいいのだ」とも言えるのだろう。