2022/10/22

LINEグループで「語学は才能だから」という意見を見かけた。才能……この言葉はあまり私は頼りたくない。もちろん世の中には才能がある人は数多といるわけだが、語学に関して言えば私は(むろん、個人差というのはあるだろうにせよ)誰もに対して門戸が開かれた分野であると信じているのだった。私は今度の日曜日に語学の能力を試される機会を得たわけだが、そこまで来たのもそれなりに日々努力しているからだと思っている。努力に勝る天才はない、というのもひとつの真理だと思っている。どこまで楽しく努力できるか。

例えば、私はいつもズボンのポケットにマルマンから出ている「ニーモシネ」というメモパッドを入れて持ち歩いている。そして休憩時間などにこのメモパッドに英語でその時その時思いついたことを書き付けているのだった。これは2020年から始めたことで、きっかけはたまたま知り合いが「あなたは英語で表現している時に活き活きしている」と言って下さったからだ。日本語でメモを取っていた時もあったけれど、その時はどうしても続かず挫折してしまった。英語で書くということが私に向いているのかもしれない。さて、これは努力だろうか。

努力という言葉に関して、私は松本大洋『ピンポン』という漫画を思い出す。この作品の中で、圧倒的な才能の差に打ちのめされる佐久間という卓球少年が登場する。毎日卓球の練習に励み、それでも勝てない……彼はその意味で卓球に関しては負け犬かもしれない。だが、佐久間という少年のその後を追いかけていると彼がその努力の果にささやかな幸せを見出した、とも解釈できる展開が待っていることに気づく。その意味で私はこの漫画を愛する。努力する者には、その努力は実らないかもしれないにせよ幸せが待っている。これは私にとって信仰となっている。

地道な努力というものはある意味、泥臭い(この言葉は英語に訳しづらい)ものでカッコ悪い。だが、誰だって努力しなければどんなに天才的な才能を持っていても活かせまい。神話というか伝説を残している天才にしても、よくよく調べてみれば彼がひたすら努力していた(そして、むしろその努力を楽しんでさえいた)ことに気付かされる。誰もができることを徹底して行う。それが偉業となりうるのかもしれない。わからないが、少なくとも私は誰とも比べたりせず自分の道を歩み、今日もメモパッドに英語を書き続けるのだった。