跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/05/16 BGM: ASIAN KUNG-FU GENERATION - 遥か彼方

自分自身……この掴みどころのない存在。私は過去に、この発達障害のせいもあって「ヘンなやつだ」「ひねくれ者だ」と言われ続けてきたので、必然的にこの自分について深く考える癖がついてしまった。なぜ自分はこうなんだろう、なぜ自分は人と違ってしまうんだろう、と。知られるように、日本社会は異端に対して決して寛容な社会ではない。同調圧力の論理で異端を追い出す力学が働きうる、そんな性格を持っている。そのせいで私はずっと苦しめられた。私だって人と合わせられて無色透明/人畜無害な存在になれるならその方がずっとローリスクに生きられるのだからそうしたかった。でも、私は損な性分なので自分を偽れないのだ。人が『鬼滅の刃』にハマっている最中であっても自分は1人三島由紀夫を読む。それはでも、「人と違うオレってカッコいい」なんてスノッブな心理からではない(いや、そういう心理が皆無だとは言わないけれど)。どうしても自分は自分を偽れず、自分にしっくりくる生き方を選んでしまうのだ。それが私自身が保持し続けて、囚われ続けている悲しき性なのだった。

そして、ある時期からその私自身を認める術を体得してきたと思う。平たく言えば開き直ってしまったのだ。私はもう、どう転んでも「やりたいことをやる」生き方以外の生き方を選べない。この日記だってそうだ。自分が書きたいことを書くという楽しみを我慢して、「サービス」に徹して面白おかしいことを書くということがまったくできない。読書にしたって「必読書」を勉強のために読むということはできない。ある種の方からすればそれは「けしからん」「独りよがりだ」ということになるのだろう……それを私は甘んじて受け留める。だが、こうとしか生きられないことに一番「忸怩たる思い」「憤懣やるかたない思い」を感じているのも私なのだということをわかってほしい。ああ、この実に憎たらしい発達障害、この歪んだ人間性。こういう風に日々4段落で日記を書くのだって、統一したコンテンツとして書くことがついにできないからこうなってしまうのだった。でも、それをこそ人は「個性」と呼ぶのではないだろうか。村上春樹に対して「もっと封建的/伝統的な、芸者やサムライが登場する小説を書きなさい」と言えるだろうか?

だが、この私自身に徹して生きる生き方を選び、それを貫く覚悟を決めて生きているとそれはそれでけっこう面白いものだ。私自身は(最近読んだ平野啓一郎『私とは何か』が教える通り)人との関わりや環境の変化に応じて可塑的に変わりうる。前にも何度も書いていることで恐縮だが、私は元来もっとネガティブでペシミスティックな人間なのである。だが、英語で表現し始めるようになると自分の中のポジティブな思考回路が作動し始め、自動的に他人に多大な感謝を伝えたり人を励ましたりするようになってしまう……外部が自分自身にそのように作用し、それによって自分自身が変わる。そしてそのようにして変わるこの私の中で生み出されるさまざまなアイデアを私がアウトプットすることによって世界がさらに豊かになる……そうした、ほぼ無限とも言える相互作用こそが私がこの世に及ぼしうるある種の貢献なのかもしれない。あるいはもっと言えばそうして外にアウトプットして世界に働きかける、その作用こそが私がこの世に存在する意味ということなのかもしれないと思う。この世界は豊かなカオスだ。そしてそれはいかようにも変わる。

過去にそのことがわからなかった時、私はずっと自分自身を「すでに固まってしまった」「変わりようがない」ものだと捉えられていた。成長の余地もなく、それゆえに一生ダメな人間だ、と。そう思ったからこそ酒に溺れたところもある。自分は所詮、汚いスラングを使えば「一介の『うんこ製造機』だ」と……あるいは、自分は発達障害者であるということに絶望していた時に「発達障害は一生治らない」がゆえに「自分はこの宿痾とともに呪われた生を生きる」「自分はこの日本社会が生みだした失敗作だ」と居直って生きていたりもしたっけ(書きながら、つくづくこの誇大妄想狂なところを自分でも恥じてしまうが)。どっちにしてもそれは自分が「変わらない」ということを前提にしていたのであり、あるいは心のどこかで「変わる」ことを恐れてすらいたのかもしれないとも思う。今、私はそうした「変わる」恐怖から完全に無縁になったとは言わない。だが、少なくとも「変わる」こと、「流転」することを認めたいと思って生きられていると認識している……つもりだ。「またまた、そんなこと言っちゃって。日記は毎日毎日マンネリそのものじゃないか」と半畳を入れられるかもしれないけど……。