跳舞猫日録

Life goes on brah!

踊る猫の100冊(3/3)

66. 古田徹也『いつもの言葉を哲学する』
古田徹也のウィトゲンシュタインをめぐる考察ももちろん面白い。だが、この本はぼくたちが日頃から使っている言葉を手がかりに実に軽やかに「哲学」に案内してくれる。そう、「哲学」とは本来こうしたカジュアルでとっつきやすいものだった……とぼくは信じている。

67. 青木新門納棺夫日記
青木新門からは「凡事徹底」を学んだと思う。頭でっかちな理想を語るのではなく、現場に赴きそこで対象と触れる。青木新門は文字通り「死」と触れ合った挙げ句「死」の真髄に触れたわけだ。ぼくはまだそこまで思い至れていない。

68. イアン・マキューアン『最初の恋、最後の儀式』
マキューアンのこのデビュー短編集は「危ない」。異常性愛が赤裸々に語られているから、というのももちろんあるのだけれどもっと恐ろしいのは彼の筆致がそうした問題を触れてなお「みずみずしい」からだ。下品な対象と戯れる上品で繊細な感受性。

69. アラン『幸福論』
アランを読むようになったのも最近のことだ。中島義道にかかればこの本は駄作だが、ぼくは自分がつい深刻になりすぎること、そのせいで動けなくなることの恐ろしさを知っている。身軽に動けるようになるための本として、実にこの本は読みやすくて面白い。

70. 冷泉彰彦『セプテンバー・イレブンス』
9.11同時多発テロの後、大量の書物が刊行された。ぼくはもちろんその中のほんのひと握りの本しか読んでいない。でも、その中でこの本の冷静さと温もりは光っていると思った。現地に住む人間が生活をていねいに暮らしているからこそ書けた平熱のレポート。

71. マーク・ピーターセン『英語のこころ』
マーク・ピーターセンからはほんとうに多くを学んだ(もっとも、ピーターセンからすればぼくの英語はひどいものだと思うけれど)。この『英語のこころ』では達意の日本語で彼が捉えた面白い英語圏の現象を教えてくれて、読めばかならずタメになる。

72. 金井美恵子『岸辺のない海』
73. 金井美恵子『夜になっても遊びつづけろ』
金井美恵子はぼくにとって一種の「教師」だ。彼女を通してぼくは紋切り型に溺れることの危うさを学び、自分の直感を信じておかしなことを(もちろん時に間違うにせよ)語ることを学んだ。その鋭利な精神は小説・エッセイで形を変えて発揮され続けており、今でも背筋が凍る。

74. マルセル・プルースト失われた時を求めて 1』
もちろんぼくはこの長大な小説を読めていない。多分生まれ変わったとしても読めないだろう。だが、読み通すだけが小説の面白さではない。この作品の出だしは不興を買う有名なものでもあるが、ぼくにとっては常に理想のイントロだ。ここまで陶然とさせられるイントロはそうない。

75. 吉岡忍『M/世界の、憂鬱な先端』
宮崎勤の誘拐殺人というセンセーショナルな題材に迫り、文学的とも受け取れる自意識のこじれを交えつつ彼はこの畢生の大作に仕立て上げた。読むほどに、彼の孤独や生きづらさがぼくの脳裏でくっきり形を結ぶ。ぼくはどう彼と接すべきだったのか?

76. マイケル・ギルモア『心臓を貫かれて』
実兄の殺人、そしてそのトラウマ。言わば実に古典的なテーマだ。そのテーマを通して、やや晦渋な作品になりつつもギルモアはひとつの答えを出してみせた。書くことは時にこうして「治癒」に結びつく。少なくとも書き手が真摯であればその可能性はゼロではない。

77. 吉田知子『お供え』
これも実によくできた作品集だ。何度も読み耽ったことを思い出せる。日本という国が持つ「花鳥風月」の光景の中で綴られる幻想的な世界がここにある。日常が少しずつ歪み、そして最後には思いもよらないカオスあるいはカタストロフが訪れる……。

78. 『梶井基次郎全集』
ぼくが持っているのは文庫本なのだけれど、この1冊に梶井基次郎のエッセンスが詰まっていると感じると贅沢に思える。彼は実に鋭い感受性を持ち、それを言葉にする能力において秀でていた。ぼくの中ではその意味で日本のフェルナンド・ペソアなのだけれど、誰も賛同してくれない。

79. ゼーバルトアウステルリッツ
幼年期をめぐる甘美な思い出語り、というのはありふれたテーマだ。だが、その語りを真摯に究めるなら人は自分の歴史がいかに政治によって翻弄されうるものか、そのひ弱さに直面することも必要だろう。そこから逃げない姿勢、勇気をもらったように思う。

80. バリー・ユアグロー『一人の男が飛行機から飛び降りる』
ユアグローの書く夢(?)の世界は実にスラップスティックだ。そしてその夢はどこかぼくらの現実にも似ている。不条理としか言えないことに翻弄され、その中でジタバタあがくしかない……でもユアグローの作品世界の登場人物たちはそのしたたかさを見せつけ、ぼくらを励ます。

81. 塩山芳明『嫌われ者の記』
ぼくはへなちょこな人間なので、とてもこの日記の著者のような毒舌は発揮できない。彼の筋の通った批評眼にカブれるほどぼくは若くもない。だが、彼のような書き手の怖さを知ったことはぼくの中でずいぶん「生きて」、「効いて」いる。

82. 青山真治『宝ヶ池の沈まぬ亀』
青山真治のこの日記を通して、愚直に考え抜く力について考えさせられたと思う。実によく観て、よく読んでいる。その好奇心旺盛な姿勢を貫いて、もっと生きてほしかったと思うのは決してぼくだけではあるまい。

83. 水村美苗私小説 From Left To Right』
完成度がそう高いとは思わない。粗いところがあるし、会話が長すぎる。だが、英語を学ぶ者として自分の中にある英語と日本語の相克についてこの本はさまざまな示唆を与えてくれた。ぼくも彼女のように書きたいと思うが、こんなチャーミングな出だしはなかなか思いつかない。

84. 下條信輔『サブリミナル・マインド』
下條信輔の本を読むほどに、脳の不思議さについて考えさせられる。意識の深淵さについても。この本ではぼくたちが自明のものとして扱いがちな「私」について、さまざまな実験結果をベースに分析してくれる。その分析は(データは古びる運命にあるが)今でも活きている。

85. 三木那由他『言葉の展望台』
こちらを読み、古田徹也の本と同じくらい「普段の日常生活に『哲学』『思想』はこんなに役立つんだ」と眼を啓かれる思いがしたことを覚えている。裏返せば「哲学」はただの愛玩物ではなく「ツール」なのだ、と。ならばもっと積極的に使うのもアリではないか。

86. 二階堂奥歯『八本脚の蝶』
この本は実は迷った。少なくともぼくの好みの本ではないからだ。だが、自分を「二階堂奥歯」と名付けその名の下に書き続ける生活を禁欲的に過ごした女性の記録として、実に参考になる。エリオット・スミスニック・ドレイクを聴きながら読むクセがついた。

87. 別役実『日々の暮し方』
受験勉強の過程で国語の試験問題で出会った。でも、そんな出会いを仕組んだ人の発想も侮れない。生真面目な口調で無表情に語られる、それでいて実に人を喰ったユーモアというのが存在しうる。それこそがコメディの精神の1つなのだな、と唸らされる。

88. 都筑政昭『「小津安二郎日記」を読む』
小津安二郎にカブれた時にぼくはこの本を読んだ。小津の日記を通して小津がどう生き、何を考えたか生々しく再現する。もちろん小津の筆致に触れられるのも醍醐味の1つだが、都筑自身の愛情を込めた筆致にも学ばされる。

89. 頭木弘樹『絶望名人カフカの人生論』
頭木弘樹からは『食べることと出すこと』とも迷ったのだけれど敢えてこれで。カフカを読みたくさせられると同時に、弱さを才能やバネにして生きる「逆転の発想」というものもあるのだなと教えられた。ぼく自身、悩みを抱えた時にカフカ頭木弘樹の文章に癒やされている。

90. スティーブ・シルバーマン『自閉症の世界』
実はこの本、翻訳がよくないと評判でもある。だがそれでも、この本をぼくは読み通しぼく自身が生涯抱えなければならない「発達障害」「自閉症」について学ばされたことは確かだ。そして、後に原書で読もうとして挫折している1冊でもある。

91. 植草甚一植草甚一コラージュ日記』
植草甚一のコラムはどこか安心して読める。たくさんの本を読みこなし、実にさまざまな媒体を通して「勉強」したにも関わらず「俺さま」的な尊大さがないからだ。ただ本やジャズが好きで好きで仕方がなかった人。そんな飾らない人柄は日記からも伺える。

92. 大岡昇平『成城だより』
大岡昇平は実は情けないことに『野火』くらいしか読んだことはなかった。この日記を読むと、彼からその怠慢をなじられても仕方がないと改めて思う。目に映るものすべてをその柔軟で稚気に富んだ知性で分析しようとする才気を感じさせられる。こう老いたい、と夢見てしまう。

93. 福嶋亮大・張彧暋『辺境の思想』
この往復書簡を通して、若き批評家たちの知性が語る風通しの良い日本と香港の歴史に思いを馳せた。実に多くを勉強しており、その野蛮さからこそ語りうる(が同時に驚くほど繊細でもある)分析に舌を巻く。

94. ニーチェツァラトゥストラはかく語りき
もちろん理解できたと語るつもりはないのだけれど、それでもこの作品を読むとニーチェの毒の生々しさに酔わされる。断片的にしか理解できていないのだけど、ニーチェアフォリズムで冴えを示す人だったからそれでもいい、のか? よくないだろうな……。

95. 山田風太郎『戦中派不戦日記』
1人の軍国少年の生々しい内省と読書を綴ったこの日記は、同じく乱世を生きるものとして実に学ばされる。ぼくの読書はしかし(若くないせいか)彼ほど真摯ではない。それは多分生きる才能の問題でもあるのかもしれない。

96. 奥泉光『グランド・ミステリー』
奥泉光のこの作品からは小説でしか成し得ないこと(ことに「長編」だからできること)が存在することを学べる。長い作品を読ませる確かな筆力、その中で歪みを演出するトリック。『ドグラ・マグラ』的な迷宮を味わえるナイスな1冊だと思う。

97. 阿部和重アメリカの夜
もちろん阿部和重はこのデビュー作より優れた作品をたくさん書いている。だが、この作品が持つ熱が好きだ。ブルース・リーをめぐる独白とその己自身のマジさを諌めるもう1人の自分。この分裂状態を潜り抜けられた時、人は作家(あるいは大人)になれるのかもしれない。

98. 森永博志・立川直樹『シャングリラの予言』
今の目で(つまり彼らと同年齢になった眼で)読めば実に彼らの対談は内輪受けするものであり、脈絡のなさに言葉を失う瞬間もある。だが同時に、こうして「いいものはいい」と素直に評価できる新鮮な感受性を持ち続けるのも難しいなと彼らを羨むことも確かだ。

99. ドストエフスキー死の家の記録
罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』ではなく、光文社古典新訳文庫の望月哲男訳で読んだこれを。訳のせいか古くない。これはロシアが生んだ『ショーシャンクの空に』だと思った。いや、あんな華麗な脱出劇はないものの人間群像がいかにも生々しく、憎めない人たちばかりだと受け取った。

100. 管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』
管啓次郎のこの本からはタイトルにある「フリーダム」な読書の姿勢をもらった。読み通すことを考えずに、もっと気ままに本と触れること。そうした姿勢を学ばなかったらぼくは今のように古典を「戯れに」手に取る蛮勇をついに自家薬籠中の物にできなかっただろう。