跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/06/04 BGM: Little Creatures - THINGS TO HIDE

朝、ふと今日は六四天安門事件の日だったということを思い出す。それについて中国人の友だちと少し話す。すると彼が「あの事件の政府の対応は正しかったと思っている」と言ってくれた。「結局、今のぼくたちの国の経済発展を見るとそう思うんだ」と。これに関してぼくはバカの一つ覚えで「民主化こそ要」と思っていたので意外に思うと同時に、当たり前すぎることではあるがぼくにはわからない中国のリアルがあるのだなとも思った。これは相当に自分のアホさ加減を吐露することになるけど、ぼくが思っている中国の姿とは「政府からの検閲があって人が圧政を強いられて云々」という不自由なイメージだったのだけど、そんな中国は極端に言えばぼくの頭の中にしかないのかもしれない。そう思い、朝からまた1つ学んだと思った。その中国の友だちとは英語でやり取りしているのだけれど、いつも書いていることでもあるけれどこうして言葉を学んで異文化コミュニケーションを行う醍醐味もこうした発見や学びにあるのかなとも思ったのだった。Discordでもこの天安門事件の話をしつこく続けて、ついにウザがられてしまった……。

エドワード・サイード『知識人とは何か』を読む。記憶が確かならぼくは一度この本を読んでいる。1995年のことで、当時ぼくは多感な20歳の若造だった。サイードはこの本の中で、専門知識をふりかざす知識人の姿を批判している。ほんとうの知識人とはそうした高みに立つ存在、権威を補佐する存在ではなく大衆の側に立ち圧政に抵抗する存在なのだ、と。若造でもっと言えば何も知らないアンポンタンだったぼくはこの論旨に完全に共感したのを覚えている。そしてこのサイードの論旨を我田引水で自分の中に取り入れ、「ともかくも楯突く存在こそが知識人なのだ」と思ってしまったのだった。いやはや、若いとは何というか。今になって読み、そんな自分の若かった頃に立ち戻ってしまい汗顔の至りを感じてしまった。サイードが言わんとしているのは(この本はぜんぜん難解ではなく実に見通しのいい論理展開がなされているのだけれど)もっと繊細で大事なことなのだと思う。それが47歳になってわかってきたのだから人生とは面白い。

イードの本を読むとは、そんな風に「わかったふり」「わかったつもり」になることを戒めて丹念に考え続けることなのかもしれない。彼が言わんとした「オリエンタリズム」にしても、ぼくの理解では「オリエントを差別してはならない」という単純な主張ではなく「この世がなぜ西洋とオリエントに分かれてしまうか」を分析するための概念だったと思う(だが、これに関しては『オリエンタリズム』を読み返さないといけない)。例えばサイードは知識人が常に普遍を目指す存在であると整理しているけれど、これを単純にわかったふりをしたりせず立ち止まらないといけないのではないか、と思う。普遍とは何だろうか? 陳腐な理屈になるが、「人の数だけ真実がある」というのは正しいのかもしれない。ことにこんなインターネット時代、世界ではますます「分断」が進んでいる。人と人がわかりあって普遍を目指せると信じることはある意味、ものすごく強靭な思考を続ける姿勢が必要なのだと思う。そしてサイードはまさにその「強靭な思考を続け」た人だったのではないか。

今日ははからずも自分の多感だった時代を振り返る日になってしまった。clubhouseで少しおしゃべりをする。そこで「あなたの思い出話を聞いていると『友だち』がたくさん出てくるので、お友だちを大事にされる方なんだなと思いました」と言われた。意外なコメントだった。ぼくはずっと人間不信に陥って、友だちなんかいなくたって困らないとまで思って本と音楽を相手に生きてきたから……少なくとも20歳くらいまではそんな風に孤独に生きてきた。酒に溺れていた頃も誰かと呑みに行くなんてことはなく、常に1人酒の日々を過ごしていたっけ。今、改めて思うのはぼくには実に色んなところに友だちがいるということだ。もちろんテキストメッセージしか交わさない程度の仲であるとはいえ、彼らは友だちであるとぼくは信じている。日本、フランス、カザフスタンキルギスインドネシア、その他諸々。この日記でいつも書いているように、彼らからいつもぼくは大いに学んでいる。そう思えばソーシャルメディアSNS)を通して承認欲求を満たすというのも悪いこととは言い切れないのかもしれない。