跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/01/30 BGM: The Who - The Kids Are Alright

他人、つまり(ぼくは思い込みが激しいので)「みんな」はぼくのことをどう思っているんだろう。どんな印象をぼくに対して抱いているんだろう。その昔、ぼくが十代の頃ぼくはこんな病んだ考えにとらわれていた。つまり、完全な「自意識過剰」から来る病だ。他人を友だち・仲間と思って信頼するにはどうしたらいいのだろうか――とつらつら考えていくと、あらためてぼくは子どもの頃から実に疑い深い人間だったのだなあとあきれてしまう。

そう……いや、これはもう「屁理屈」「循環論法」そのものだろうけれど、子どもの頃といったらぼくは本当にほかの子から、ありとあらゆる子から嫌われてたのだった。たぶんにそれはぼくが「ぼくは嫌われ者だ」と考え込んでいたからだった。そして、容易にわかるように「他人が自分のことを嫌っている」と思い込んでいる人は敵意やよそよそしさを態度として見せるというか、少なくともそう匂わせてしまうだろう。そして、そんな「敵意やよそよそしさ」をぷんぷん匂わせる人は嫌われるだろう。もしぼくが人を信頼しないなら、人はぼくを嫌う。QED、証明終わり、だ(いや、これは橋本治のまったくの受け売りなのだが)。

というのは少しふざけてみたのだけれど(ごめんなさい!)、でもこんな「循環論法」「理屈のループ」はあながちぼくにとっては「ナンセンス」「たわごと」ではないのだった。いまでもぼくは「あなた(そう、これを読んでいるあなた)に『お前なんかきらいだ』と言われようがどうでもいい」なんてことは言えない。けど言えるのは「万人に好かれなくても、1割ほどの人がこのぼくのへんてこりんでアホみたいな性格を好きになってくれたり、そこまでいかなくても『あまり困らせないでよ』と受け容れてくれたらいいかなあ」というものだ。このことに関して言えば、ぼくは村上春樹の態度や意見を思い出す。「みんなに好かれなくてもいい」と(いや、まったくもって正確な引用ではないけれど)彼は言っている。この件に関して言えば春樹から影響を受けたところはあるのかもしれない――いや、本能で体得するまでには相当長くかかったのだけれど。

この日記にも書いてきたけれど、過去ぼくはある種「嫌われ者(ヘイターというか『パブリック・エネミー』だ)」あるいは「ひょうきん者(トリックスター)」を演じたいと思った。本当に嫌われて、いじめられたりしていたのでそんな狂った(あるいはアホみたいな)状況・空気を生き延びて適応するためにはそうした、シェイクスピアに出てくるような「道化師」「うつけ」になる必要があったのだ。クラスメイトに言葉の暴力を投げかけられ、いじめられたりしてぼくなりに計算して「お調子者」としてのリアクションを晒し、心の中でさめざめ泣いた。

いま、そんな自意識のループ(サイクル)からぼくは自由かなと思っている。でもどうして? なんでそんな呪いのような、とぐろを巻いていた病から自由になれたのか。これはたぶん試行錯誤の産物だろうと思う。面目ない……もっと時間を掛けて掘り下げないといけない話題だ(時間を掛けて、どうしてこんな「ファンキー」な「おっさん」になったのか書きたいと思う)。