跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/12/16 BGM: Cream - White Room

今日は早番の日。今朝仕事中、ぼくはいつ生まれて初めての携帯電話(折りたたみ式の携帯電話のことだ。だからスマートフォンではない)を持ったか思い返してしまった。たぶんそれは2003年のこと。その年、ぼくは晴れて発達障害者であると診断されたのだった。だからそう早い時期のことではない。その年、ある友だちと出会いその人が持つように薦めてくれたのだった。

このことからある大事な事実がわかる。その年まで、ぼくは携帯電話を持っていなかった。ということはぼくはどんな外とのつながりも持たずに孤独に酒に溺れて、浸って暮らしていたかということを意味している。言い換えればまだSNSやリアルなつき合いのネットワークの「味」も知らなかったということだ。そしてぼくは、そんな外とのネットワークのつながりはいらないとも信じ込んでいたのだった。というのは、この奇矯なおかしなキャラクターはみんなから嫌われこそすれ、好かれることなんてありえないと決めてかかっていたからだ。

思い出せることがある。小学生の頃、誕生日のおめでとうカードをクラスメイトたちからもらったことがある(学校の風習でそうするように決められていたのだった)。そのカードには「(あなたには)いいところはまったくない」と書かれていた。クラスメイトはそのようにしてぼくをきらっていたからそんなふうな残酷なことを書いたのだろう。子供心に、ぼくはどうこの憎悪に満ちた、憎悪が充満する世界に対峙したらいいのか考えた。パーソナリティ、つまりぼく自身を変えるべきか……たぶんそうするしかなかったのだろう。でもいま、48になりぼくは人生のここかしこに友だちがいることを理解する。リアルで、Discordで、FacebookやMeWeで。ほぼいたるところに、と言ってもいいくらい。なぜ? この性格は変わっていない。ただ本を読み続けてきていまも読んでいるだけだ。

仕事が終わり、グループホームに戻る。オンラインミーティングに誘われていたのだけれど風邪気味なので起きていられなかった。部屋でじっとしていることに決め、阿久津隆の『読書の日記 本を出す 指を切る お葬式』を読み進める。この種のほんとうに「普通の」「平凡な」日記、平凡を非凡に記す本がぼくの興味を鷲掴みにしていることを知る。それもあってぼくはこの日記を書くのだろう。