昨日、ぼくは村上春樹の文学をめぐるオンラインミーティングに参加した(主に彼の『羊をめぐる冒険』についてだ)。それは楽しい時間だったのだけど、ぼくは感じてしまった。ぼくから出てくるこれらの英語はほんとうに意味をなしているんだろうか? というのは、ぼくは自分の英語が意味あるもの、通じるものになっているという実感を持てなかったからだ。そのミーティングではぼくは英語で説明をしたのだけど、いろいろ深く沈思黙考する時間が持てなかった。ただ、インスピレーションが語るままにあれこれ話してしまった。
だから訊く。ぼくの英語は意味があるのだろうか? この点で、ぼくはいつもおかしな情感を抱く。生徒、つまり初学の徒として英語を学び始めたとき、ぼくはいつも英語が正しいかどうか気になっていた。文法的に正しいか、構造はおかしくないか、といったことだ。でも、いまはそんなことを考える代わりにこのインスピレーションというか勘が語るものをそのまま信じるようになった。いま、ぼくは魂というか心がぼくの英語を話すと感じる。いや、それらは時に思いっきり間違ったりしているのだけれど。
今朝、ぼくはまた残念な、酷かった日々を思い出してしまった(いや、まあ「いつも」のことなのだけれど)。過去にぼくは、自分がアホだとかおかしいとかあまりにもこっぴどく扱われてきたせいもあって、テレビのコメディアンみたいに振る舞おうと試みたりもしたのだった。ぼくが住んでいたところはお笑い文化が盛んなところなので、トリックスター(つまり「ひょうきん者」)になれば生き延びられると思ったのだった。太宰治ばりのおかしなことをいくつもやった。それで、心の中ではいつだって静かに泣いていた……。
その過程のあと、つまりコメディアンになろうとする試みさえもうまく行かなかったことを認めざるをえないとわかったあと、ぼくは世界を憎み始めることとなった。このつまらない人生を生きさせる外界を、この異常な現実を――そしてぼく自身を。憎悪、そして憎悪。でも、ならその憎悪の感情はどこへ行ったのかといまは思う。いや、いまだって惨めだし貧乏だけどいまはぼくは理解と愛(少なくとも、愛そうと試みること)を試し始められているように思う。
夜、オンラインミーティング。参加者の方々がぼくの日記に言及し、優しさを示して下さった。ほんとうにありがたい。