跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/06/09 BGM: スチャとネバヤン - ネバやんとスチャやん

ああ、学歴とは何だろう……今日は遅番だった。朝時間があったので、英会話教室の宿題の英作文を書く。そこでぼくは、Discordで出会ってきたさまざまな日本語学習者の友だちとの交流について書いた。そこからぼくが大学生の頃の思い出話を振り返って、当時ロクに勉強せず遊び呆けていたことを書く。それから、ぼくが30年前に早稲田大学に通っていたことについても書いてしまった……ぼくは普段、この「早稲田に通っていた」ということをあまり人に触れ回ることはしない。これまでこの事実について知った人から、変に尊敬されて「一目置かれて」しまったりあるいは敵意を持たれてしまったりすることがあったからだ。どちらにしてもフランクな会話が成り立たなくなるので、それならぼくはわざわざ教えない方がいいのかなと思ったのだった。ぼくの住む日本ではこうした謙譲の美徳が幅を利かせていて、「能ある鷹は爪を隠す」ということわざもポピュラーなものだ。ぼくは必ずしもこのことわざを信奉しないけれど、でも確かにぼくは『機動警察パトレイバー』の後藤隊長のような「昼行灯」にして「切れ者」のキャラクターに憧れているところもあるかなとは思っている。自分で言っていれば世話がないけど。

こんなことを言うと敵を作ってしまうのかもしれないけれど、ぼくは早稲田とは「どうしても通いたかった」「念願だった」大学というわけではなかった。ぼくはもともと翻訳に興味があり、英文学を学びたいとも思っていたので具体的には家から近い神戸市外国語大学を受けようかと思っていた。だけど兄が「東京に興味はないか」「早稲田を受けてみたらどうだ」と薦めてくれたので、なら東京見学を兼ねた「記念」として一発受けてみたら面白いかなと思って受けてみたのだった。そしたら受かってしまったので、そのままズルズルと通い始めたのである……そして就職でしくじって、そこから失意の日々を送ったのだった。ああ、まさに山あり谷ありのローラーコースターのような人生。かつてはそんな早稲田のことも「まぐれだった」と恥じて、イヤな言い方になるけれど(これも反感を買うと思うのだけれど)早稲田のことも「黒歴史」としてしか自分の中で位置づけられなかったのを思い出す。「身に余る」というか、「恥」でさえあったというべきか……。

そんな風に「恥」とさえ思わせられたのは過去にずっと「お前は頭がおかしい」「ひねくれ者のアホだ」といじめに遭ってきたから、そこで「自分は大したことないんだ」と自虐的に考えるくせがついたからだろうと思う(これは「謙虚」というのとは違うと思う)。あとは田舎に生まれたから、「飛び抜けた」人間が嫌われたり白い目で見られたりしたところもあったのかもしれない、と……このことを今日Facebookで人に相談して、その人の薦めもあって「まあ、わざわざ触れ回ることはしない方が自分にとってもしっくり来るかもしれないな」と改めて思ったのだった(という割に長々とここまで書いてしまったが)。まあ、これもまた自虐的な言い方になるがしょせんは「30年前の成功」である。過去は過去だ。そんなことより、今のぼくを見てもらいたいという気持ちがある。今のぼくとはつまり、英語学習や1日断酒にせっせと勤しんだり読書に耽ったりする人間としてのぼくだ。ここにいる等身大のこのぼくを見せたいな、と思うのだった。

今日は遅番だったので、朝にニック・エンフィールド『会話の科学』という本を読んだ。会話が苦手なぼくにとってこの本は実に多くを示唆してくれて、それゆえに良書だと思った。村上春樹的な言い方になるが、「完璧な会話」なんてこの世には存在しないのだと思う。人はつねづね「えーと」「あー……」とあいづちを打ったりあれこれ言葉に迷ったりしながら、その時その時最適解と思われる言葉を編み出して「ベター」な言葉を繰り出していく。ぼく自身どうしても「流暢にしゃべること」「スムーズに切れ目なく、円滑に会話すること」を夢見てしまうところがあったのだけれどそれは幻想というもので、会話とは相手とのコラボレーション/共同作業で生み出していくものなのだ(だから相手の協力が肝要となる)。この本はそんな、「基礎的な事実」に立ち返った1冊とも言える。英会話も含めて、コミュニケーションについてこうして多角的に捉え直すことはぼくにとって実に面白い。そして、近所で行われている日本語教室を見学しに行くのも面白いかなと思い、友だちにそのことを打診してみたりもしたのだった……。