今日は休日だった。今朝、Discordで村上春樹について話がはずんだことから少しばかりある海外の方とチャットをする。するとその方が「あなたはおもしろい、クールな方だ」と言って下さった。おもしろいというのは、もしかしたらそうかもしれないけれど……ぼくにはわからない(わかりようがない)。そんなときは常にぼくは「ぼくはただのうすぎたない、うさんくさいおっさんにすぎない」と語る。これは端的に事実だ。こんな人、どこにでもいるはずだ。ぼくがこれまで出会ってきた数々の個性豊かな方々を思い出し、あらためてそう思う。
今日、Zoomで発達障害を考える会のミーティングに興じた。ぼくはこれまでお会いした数々の先生たちに関する思い出話のプレゼンテーションを行った。その席で、別のメンバーがZoomよりもDiscordを使ってみるのはどうかという提案をしてくださった。ぼく自身ここ数年Discordでいろいろ英語を学んだり発信したりしてきたのだけれど、その経験から得た知識をシェアしたりした。すぐにディスカッションが始まり、それはミーティングが終わってからもLINEで続けられた。実に濃い話になったと思う。
その後、図書館に行き本を借りる。日本の保守思想の泰斗の1人として名高い福田恆存の講演録『人間の生き方、ものの考え方』だ。この本の中で、福田は言葉が道具や物体でありうること、しかしその内側に精神的な要素を秘めた神秘的なものであることを指摘する。つまり、物体と精神の出会うところに言葉がある……いや、なんだかスピリチュアルというかオカルトめいた発想かなとも思うが、ぼくはこの考えを支持したい。理由はわからないけれど、ただぼくは言葉の力(「言霊」かもしれない)を信じたい。護符・お守りに秘められた力のように、それは「存在する」と信じる。福田はこうしたことも書く。ぼくたちがさまざまな概念(「平和」「人命」など)についていかにぼくたちが「それ以上深く」考えることを避けているか。いやもちろん、それらは大事な・貴重なことがらに違いないにせよ。こうした意見はもう「哲学」だと思う。いや、具体的に誰の哲学なのかまでは思いつかないにせよ。
今日はいい天気とは言えず、たぶんそのせいもあってかポジティブな心持ちを保てずゴロゴロして午後を過ごす。夜に、シガレッツ・アフター・セックスというグループの曲を聴きつつ三島由紀夫の日記『戦後日記』と上述した福田恆存の講演について考える。昨今、ぼくは過去のことを振り返ることが増えてきた。同時に、ぼくがいかに「日本男子」「男児」でありうるかも(こうした「男臭さ」をわざわざ確かめるのはあまり評判がよくないかなとも思うけど)。黒い髪、黒い眼(茶色かな?)日本語。こんな環境・特性のもとで生きてきたのだった。
過去、こうしたエッセンスを持ちうる自分自身のことを嫌ったことを思い出す。そして遺産を破壊しかねないラディカルで革新的な、なんでもかんでも快刀乱麻的にぶった切ってぶっ壊すポップ・カルチャーにあこがれた。パンク・ロックやグランジが古臭い、退屈なロック・ミュージックのクリシェ(お約束)をぶっ壊すのに快哉を叫ぶような感じで。でもいま、ぼくは身の回りにある伝統的なものに対して敬意を払うことを忘れないようにしたいと思う。福田が語るように、たとえばお米を食べる食文化の中にすでに日本の文化の伝統・遺産が眠っているのかなとも思ってしまう。