跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/05/07 BGM: Iggy Pop - Personal Jesus

今朝、職場で一件なにか揉めごとが起きていたようだった。ぼくはそれを遠巻きに見るだけで、でもそれについてしつこく詮索するのも気が引けた。関わりがないなら巻き込まれるべきではないと思ったからだ(木枯し紋次郎みたいだが)。言い換えれば、ジョブコーチやグループホームのスタッフが教えるようにぼくは自分と外との間にある強力な、くっきりとしたラインを「バウンダリー」「境界線」として引こうとしたのだと言える……とまあ、気取った言い方をしてしまったが要は「よそはよそ、ウチはウチ」と考えたということだ。

でも、問題はこれだ。どうしてそういうふうに自他の間に適切な「線」「バリア」を設けることがぼくにとってひどく難しいのだろう。どうすれば自分を他人と切り離し、うまく距離を保てるのか。過去(毎度ながら)、ぼくが10代の頃にそうして切り離すことができず自他の境があいまいだったのでひどく苦労したことを思い出す。率直な実感として、世界のいろんな問題と(たとえば当時は1990年代初頭で、湾岸戦争と日本の国際貢献という問題がホットだった)ぼくのごく個人的な問題が頭の中で「ごちゃまぜ」「まぜこぜ」になってしまっていた。つまり、世界の問題を解決すれば自分の生きづらさもすぐさま解決されて良くなる、と考えていた……恥ずかしい(いや、たしかに世界の問題と向かい合うのは大事だとしても)。ある意味では当時ぼくの頭の中は混沌とした感覚に満たされていたのだと思う。マニアックな喩えだが、ニルヴァーナの曲がまさに表現するような。

他人・外界と自分を切り離す。「よそはよそ、ウチはウチ」……この態度を貫徹するには、はっきりした自分というもの(また横文字を使うが、「アイデンティティ」だ)が自分の中にないといけない。びくともしない、信頼できる自分の手ざわりが感じられないと……専門用語で言えば「自尊心」「自尊感情」となろうか。ぼくは単なるトーシロでしかないので心理学や哲学に関しても聞きかじったことを並べているだけにすぎないが、つまりそうしたはっきりした事故があるとそれが核となって自分を導いてくれるのだと思う。コンパス、あるいはカーナビのようなものといえばいいだろうか。でも、若くてアホだった時期、そんなコンパスやカーナビが自分の中にあるわけもなく、したがってつらい時期を過ごしたのだった。

思い出す(いや、毎日毎日こんな陳腐な10代のぼくの灰色のエピソードばかりシェアしてごめんなさい)。ぼくの中にはあまりにも高い理想と低すぎる自尊心が存在していた。言い換えれば、プライドなんてかけらもなくしたがって虚勢を張るばかり、空威張りやハッタリで生きるばかり。心の中では大きなものと合一・一体化したいと夢見たりもしていた。それが嵩じるあまり、一時期極左の団体に入りかけてエラい目に遭ったりもしたのだった(いや、世が世ならカルト団体にだって入っていたかもしれなかった)。当時のことを顧みて、もっと「揉まれる」必要があったのだなと思う。恋だってすべきだったかもしれない。クラブ活動、学業、バイト……ただ、そうしたことを実地でやろうとしてもぼくの場合は上にも書いたような低すぎる自尊心を抱えて臆病になるあまり、あれこれ理屈をつけて尻込みしていたんだろうけれど。

だがまあ、そういったことは昔話である。いや、いまだって実を言うとぼくは日々そうして「よそはよそ、ウチはウチ」を決めて生きることに苦労している。線を引き引き生きることは難しい。だけど、たしかに「これがウチ」だと思えるもの(またもや難しく言えばぼくなりの「アイデンティティ」)は見つけられたかなと思う。だからこそこんな日記が書けるのかなとも思った。この話題、また気が向いたら書くかもしれない。