跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/10/02 BGM: R.E.M. - Electrolite

今日は遅番だった。いつも朝、携帯する本を何にするか迷う。今日はふと沢木耕太郎の『彼らの流儀』を(読み切れもしないのに)携帯したくなったのでカバンの中に入れる。そしてイオンに行き、そこのフードコートで読み始めた。冒頭に書かれているとある野球選手について書かれた短いコラムに目が留まる。彼がプロの球界入りを決断したきっかけとして『ナチュラル』という映画を観る場面が紹介されていたのだった。そこでぼく自身のことに思いが至った。ぼく自身はこんな風に「自己決定」「自己責任」で、誰のせいにもせず自分が「肚」「腹」を括って決めたことというのはあるだろうかと思って、そこで読む手が止まってしまったのだった……いつ「この道」「この人生」を生きようと決めたか。そんな瞬間はでも、自分の人生にはあっただろうか。いつもぼくは「何でこんなことに」「どうしてこうなった」と思いながら生きてきたように思う。いつも流されるままに生きてきた、というのか……こんなことを書くと反感を買うとも思うのだけれど、誰もがもしかしたら最初に決定するかもしれない進路(つまり、どこに「進学」「就職」するか )についてもまったく自分で決めたわけではなかった。

ああ……大学進学の際、兄に薦められて東京の大学に進学したことを思い出す。その後就職で躓いて、この生まれ故郷に戻ってきてそこで就職して……常に「流されるままに」生きてきたなと思う。情けない「あなた任せ」「他人任せ」の人生だ。でも、開き直るのだけれどぼくからすると「生きるとはそんなもの」じゃないかとしか思えない。ぼくという人間はそんな「超人」「完全無欠」な、倫理・道徳を超越して自由自在に生きられる存在ではありえないとも思う……なんだか極論に走ってしまいそうなので慎重に書かなければならないな。何はともあれ、そんな「流されるままに」生きてきた人間なので結果として自分の決断力を超えたところですべてが決まっていくというか、すべては何か大いなるもののシナリオに沿って動いているようなそんな感覚を感じている。ああ、今日は何だか難しい話に終始してしまいそうで恥ずかしい。何はともあれ、そんなことを考えていくとぼくは「そもそも、少なくとも部活に入って汗をかいたこともなかったしせっせと受験勉強したこともないし、好きなことを好きなようにしかしてこなかった、そんな人生だった」とも思えてきたのだった。関心のあることを関心のあるままに掘り下げて生きてきたその「成れの果て」にこんな40代を生きているのだった。

でも、人生とはそんなものではないだろうか。ぼくはこの話になると頭木弘樹さんが「絶望」という言葉で語る「人生とは思い通りにいかないもの」「ままならないもの」だという考え方の側に立ちたくなる。頭木さんの本を読み始めたのは彼がカフカについて紹介していた本を読み始めてのことだ。カフカの、笑ってしまいたくなるほど後ろ向きな言葉に触れている内にぼくも「そうだよな」「いつもアクセルを踏んでばかり、『絶好調』と言ってばかりの人生なんかまっぴらだな」と思うようになった。この考え方を突き詰めると哲学的な「生まれてきたことが悲しいこと(だって『産んでくれ』と頼んだことなんてないのだから)」という考え方になり、「でも、生きるってことも悪くない」というしみじみした味わいに落ち着くと思う(少なくともぼくはカフカや頭木さんの本からそんな「しみじみ」を感じ取っている)。「産んでくれと頼んだわけではない」「生まれてきたことは悲しい」「ぼくは無力だ」、でも「それでも人生は味わい深い」。そう考えていくと「人生は奥深い」とも思えてくるのだった。また頭木さんが編んだ『絶望名言』を読み返し、あるいはカフカの未だ読んだことがなかった『失踪者』を読みたくなってきた。

ぼくが青春(?)を過ごした時期、盛んに「自己決定」「自由」ということが取り沙汰されたのではなかったかと思い出す。女子高生の援助交際が話題となり、彼女たちが「自由意志」で自分自身を売ることの是非が話題になったっけ、と。あるいは鶴見済が『完全自殺マニュアル』を書いて、「自殺もOK」「死にたくなったら死ねばいい」とも主張したりしたのを思い出す。どちらも「自分の意志で何でもかんでも好きなようにしろ」「モラルなんてぶっ飛ばしてワガママに生きろ」という話だと思う。そんな風潮(いつも書いているけれど、ぼくが今以てなお尊敬している宮台真司がそんな風潮を「後押し」していたのではなかっただろうか? 異論は認めたい)にそそのかされて、ぼくもずいぶん「楽しけりゃいい」「自分の人生を好き勝手に生きて何が悪い」と居直って酒に溺れたり、荒れた食生活・生活習慣のまま過ごしたりしたものだ。いまはそんな極端なことは考えない。ぼくは1人ではない……1人で生きなければならない時、1人で考えて決断しなければならない時というのがあるのは確かだけれど、でもその決定が他人に及ぼす影響についても考えてないといけないとも思っている。