単純な生活

Life goes on brah!

2024/05/21 BGM: Fliipper's Guitar - Groove Tube

愛とはいったいぜんたい何なのか。三島由紀夫仮面の告白』を相変わらず読みふけりながら、こんな問いがいま一度自分自身の中によぎるのを感じる。いや、噴飯物というか「大人になれ」で終わる話だろうとも思う。でも、ぼくにとって愛とはぼくたちの精神の中に棲む「神」や「平和」といった概念と同じようなものつぃか思えないのだ。もちろん、それはなんら悪いことではないと信じる。そんな想像上の概念は大事なものとして扱われうるし、だからこの残酷で即物的な人生を平穏に・楽しく生きられるとも思うのだ。でも……愛とは何だ。あるいは、なんだってぼくはこんなめんどくさい質問をごく自然に思いついてしまうのか、こんなこと聞かなくたって残酷な人生を生きることはできるというのに。

あれこれこのことについて考えて……ぼくは自分自身の初恋のことを振り返る。でも、ぼくには初恋がない。いや、誰かを愛したことはありえただろう。でも、この困難続きでクソゲーみたいだった少年時代はぼくは愛の可能性を文字通りしらみつぶしに「削除」して生きるしかなかった。というのは、ある考えに取り憑かれていたからだ。「お前は邪魔だ。許されて生まれてきたわけではなかったのだ。消えろ」という考え(念のために……両親からこんなことを言われたことは一度たりともない。クラスメイトなら笑顔でこんなことをうそぶいたかもしれないが、それもぼくの「想像の閾」で起きたことだ)。そんな目に見えないプレッシャーがぼくを縛り付けたので、そんな感情の芽生えをつぶさなければならなかった。

だから、いまもぼくはぼくはいつそんな愛の可能性・瞬間がこのぼくに芽生えうるのかわからない。実感をともなって感じられない。初恋について話を戻すと、ぼくはガイドとなる人が必要だったんだろうなとも思う。そんな瞬間が芽生えることについて「心配ないよ」「ドント・ウォーリー」と言ってくれる人。不幸にもそんな人が身の回りにいなかった。だから、心の中で「去勢」をするしかなかったのだった。

三島が偉大な作品でつづったように、愛への渇望・欲望はぼくたちを支配することもある。それをぼくはこの脳・精神のみならず肉体で肌身にしみて、ひしひしと感じる。精神面の愛と肉体的な欲望・愛欲を過去に分けようとしたことを思い出す。読書やネットフリックスで何かを鑑賞するといった頭脳の喜びと(いや、笑わないで最後まで聞いてほしい)、身体を動かすエクササイズと。

いま、ぼくは三島に同意する。フィジカルな運動がたしかなよろこびをもたらし、ぼくたちを虜にするとつづった三島に。今日、ぼくはもっと身体を動かして三島なんか読んで過ごすべきではなかったのかもしれなかった。そうしていたらたしかな喜びを感じ、貴重なことをつかめたのかなあ、とも思ってしまった。いや、あとの祭りというやつだが。