あらためて思うのだけれど、インターネットとはいったい何なんだろう。ただのくだらない「仮想」のたわごとのかたまりにすぎないのか(したがってニセモノ・まやかしの産物なのか)。それとも、確固として存在する「オルタナティブな現実」なのか。最近ぼくはこのことについて考え込んでいる。というのは、ぼくにとってネットでのいざこざ(しょうもない小競り合い)がうんざりするものとして感じられるからだ。もちろん、積極的に認めたいこととしてあるのはぼく自身も1ユーザー、1利用者として常にネットに助けられてきたという事実だ。たとえば、いまでもぼくはさまざまな面白い本や映画、音楽のニュース・情報をネットで拾っている。でも、ネットはぼくにとってある種とても混沌とした、多彩な欲望がまさに渦巻いている世界でもあり続ける(そして、ぼくはむしろそういう「(邪)欲」をこそカワイイなあとか思ってしまう人間でもあるのだった)。
今朝、ぼくは母と会うためにイオンに行った。そこでコートを買った。その買い物のあと少し話す。ああ、恥とともに言わないといけないことがあって――というのはいまでもぼくはたぶん、世間一般的には(あくまで、大層に響くと思うのだけど「世間一般的には」「口さがない人から見れば」という次元の話なのだ)「リッチ」でもなければ「グレイト」でもないということだ。ぼくの人生は、普通の平々凡々たる生き方を目指すことに汲々としてしまい、しかもそれも叶わなかったかなあ……と。でも、少なくともそんなぼくであってもできたことはあって、それは今年で9年間完全断酒が叶ったということだ。そしていまの会社でももう20年以上ぼんやり仕事が続いている。そういうことを誇れる、かなと――そして、母もその努力をたしかに認めてくれた。ああ、とてもしみじみ両親の恩がわかるできごとだった。
1つのはっきりした、とても簡明な事実がある――ぼくは両親によってこの世界に生きるチャンスを授かった。そして、この価値観にしたって(ぼくはまったく無色透明・無味無臭の人間ではないのだから)たくさんの人との関わりから培われ・育てられたものなのだった。つまり、ぼくはたくさんの他者・他人と共に生きている。1人ではまったくもってありえない。今日はぼんやりダニロ・キシュの『庭、灰』をめくり、あらためてすばらしい散文だと唸った。そして、この作品からあらためて(さっきも書いたけれど)親の恩について思い知ったのだった。
ワッツアップでぼくはイランの爆発事故(テロだろうか?)を知る。ああ、なんと酷い年明けだろう。そうした出来事に直面し、厳しさを強いられる人のために祈る……ぼくたちの国の地震について、たくさんの友だちがぼくのところ(いや、「ぼくたち」のところだ)に心配のメッセージを寄せてくれた。ぼくたちは孤絶した存在ではありえない。このネットワーク、このウェブはたしかに人を堅く、親密につなげているのだなあと思った……。