思い起こせばあれは今夏のことだったはず。あの日、まったく別件で市内にあるブックカフェに行ってそこで多忙なオーナーの方にある相談を持ちかけたところ、ひょんなことから(詳細はいまはもうまったく思い出せないが)オーナーが絵を描くことを薦めてくださったのだった。もしこれが10年前(具体的には、まだジョブコーチとお会いしたり自助グループに関わったりする前)ならば断っていただろう。というのはそのころのぼくはあらゆることに自信を持つことなんてこれっぽっちもない、ただのヘタレ・弱虫でしかなかったからだ。だが、そうしてジョブコーチや自助グループと関わってきたことがあってぼくも少しばかり「脱皮」できていたからか、「じゃ、やってみようか」と思いさっそくクレパスを買い求めたのだった。オーナーの方に用意してもらったカンバスに、そのクレパスで絵を描いてみた。
そんな事実を省みるに、あらためて(くどくなるが)実に自分のまわりには「頼れる」「イキな」人ばかりだと感謝感激を禁じえない。くだんのブックカフェのオーナーの方、搬入を担当されたグループホームの方々、ジョブコーチ……オンラインにもビクトリアさんやその他頼れる友だちがたくさんいることを感じる。10年前、まだアルコールに溺れていたころのことを思い出す。悲しき・孤独な、時代の流れに取り残されてただアルコールとネット漬けで日々を過ごすしかなかった頃。当時も自分勝手で現実離れした夢想・妄想を肥え太らせていたと赤面する。「ああ、本気さえ出せば。打ち込めるものを見つけて全力を出せば。そうすればマイルストーンを打ち立てることができるのに」。いや、ありがちな・陳腐すぎる話ではある。
心のなかで肥え太らせていたそうした「ありふれた」「よくある」妄想・強迫観念をいまだありありと思い出せる。若い人たちは誰もがそうした道を通る、とさえ言えるのかもしれない(当時のぼくはもう若くなく30代だったはずだが)。ぼくの若いころは、結局ネットでくだを巻くばかりでなんの努力もしていなかった。そんなことを考える・省みるとやっぱり「いま・ここ」に自分が立てているのは自力ではありえなかったとも思う。友だちの助けがなければ、孤絶していたなら、こんなことできなかった。絶対できなかった。
ああ、孤独をかこっていたころ、あらゆる世界とのつながりを失ったかのようにさえ感じられたころ(思えばぼくが携帯電話を持ちはじめたのさえ30過ぎてからではなかったか。友だちなんていなかったのだから)。そのころ、心中に巣食う野獣にそそのかされて「スーパーヒーロー」になりたいと思い込み、クラスメイトや周囲の無理解な人たちを見下したい・睥睨したいとも思ったのだった。それだけコンプレックス(劣等感)やトラウマを主観的に背負い込んで身動きすら取れなくて、強迫的なそうした野獣の声に縛られるしかなかったということかもしれなかった。いまはぼくは「自分の」声に従いやりたいことをやれればと思う。どんなことでも、なんだってできる(と信じる)……なんだかオアシスの曲みたいだ。いや、今年49なのに。