跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/05/15 BGM: Motoharu Sano & The Coyote Band - ラジオ・デイズ

今日は休みだった。今朝、グループホームのメインハウスに行きそこで副管理者の方と話をする。ぼくの中にある感情である「嫌悪」「ヘイト」についてしばし話し合った。かれこれ1時間ほど話し込む。ぼく自身のほんとうの気持ちを話すのにひどく混乱してしまいつっかえてしまったが、その方はいろんなアイデアを提案して解決しようと試みてくださった。「試みて」と書いてしまったのはその方が「こうすればいい。黙ってやりなさい」なんて高圧的なことをおっしゃらなかったからだ。ぼくの不十分な語りからいろいろ思案してくださっている、と感じた。

いまぼくは周囲を見渡して……そしてあらためて「ついてこい」「従え」なんてことを言い放つような「リーダー」「教祖」気取りな(もっと言えば「お山の大将」な)人がどこにもいないことを確認する。ぼくの信頼できるスタッフの方々はいつだって、まずぼくのことに耳を傾けることから始められる。そのあとに、いろんな提案をして下さる。古典や聖典的な書物・マニュアルに書いてあるようなことを丸写ししたような「模範解答」ではなく。それがとてもありがたい。

ある友が質問してくれた。ぼくはそんなふうに日記でトラウマについて書き記し(書きなぐり)、どうしたいのか。困難を克服しようとしているのか。ただ「書き出す」ことに務めるのか。この質問はなかなか歯ごたえのある面白いもので、考えてしまう。言えるのはぼくは、まずそうしたトラウマに満ちた思い出を吐き出す必要があるということだ。そうして心を軽くして次のステップに動けるように務めないといけないと思う。

でも、こんなことも考えないといけない。いつの日か、ぼくはこの「憎悪」を「克服」「乗り越える」ことができるのか。この女性嫌悪・女性蔑視というか、ミクロな次元での(無意識・無自覚・鈍感な)女性への差別感情。たぶんそれは何をもってしても矯正したり克服させたりすることはできないと思う。できることはその歪んだ感情や欲望を保ち続け外に出さないこと、つねにあたうるかぎり誠実に向き合うことかなと思った。いや、言うは易く行うは難しなのだけれど。

午後になり、明日のプレゼンテーションのための草稿を書く。ぼくがこれまでの人生で出会った先生たちについて書いたものだ。この世にはたくさんの先生がいる。生徒たちにおもしろい、有益な解答を与える。これまで出会ってきた方で印象的だった方の1人が、テオ・アンゲロプロスというギリシャ映画の巨匠の『ユリシーズの瞳』について推薦してくださった方だ。教室で「絶対観てください!!」と熱弁を振るわれたのだ。当時、インターネットはまだ大衆社会に広まっていなかった(むろんパソコン通信に代表されるネットワークはあったにせよ)。ましてスマートフォンYouTubeもあるわけもなく……この映画について探すのは骨が折れたが、力強い情熱的な「推し」のコメントについ映画音痴のぼくはこの名作を観てしまった(いまになってみると、やたら長くて濃厚な映画だったという記憶しか持っていないのが情けない……)。