ぼくの使命(ミッション)はいったいなんだろう。この日記でも書いてきたが、ぼくはもう49歳。でも、いまだにこの問いの前で子どものようにあれこれ・あたふたとまどう。若い頃にたしかに使命を見つけ、秀でた才能を発揮して生きていく人もいる。でも、ぼくはそうではない。ぼくの場合はずいぶんぼんくらに20代・30代を呑まれて生きなければならず、才能どころではなく日々がただ絶望に染まりきっていてたいへんだった。でも、そんな日々の中で死ぬに死ねなかったのは心の中にたしかに燃える炎があったからである。くすぶるものを抱えて生きていき……じゃ、いったいその炎というかなんというか、ぼくを生きさせたものの正体はなんだったんだろう。なにを信じていままで生きてこられたんだろうか。
たぶん、ぼくはそれを情熱の炎、原始的な燃え盛る炎と表現できると思う。「たぶん」と書くのはそれをぼく自身いまだにうまく表現できる自信がないからだ(魂のような幽霊のような、はったりのようなよくわからないものとしか言いようがない)。言い換えればそれは衝動だ。ぼくを突き動かし、生きさせてきた衝動であり生きたいという情動。昼食後、マッコイ・タイナーを聞く。若い頃はジャズなんてこれっぽっちも魅力がわからなかったのだが、いまは老いていくにしたがってクールなジャズに魅入られてしまっているのを感じる。これもまた、この人生のワンダフルな事実だ。
仕事に入り、休憩中に友だちがイギリスの選挙選のことをシェアしてくれた。労働党のスターマー党首に関する情報だ。ニュースをスマートフォンでチェックして、政権交代のニュースを知る。日本の政治的な光景についてぼくはプロのコメンテーターではないのでなにも責任持ってコメントすることなどできるわけがないのだけれど、ソーシャルメディア(SNS)でちらほら見る限りではやはりシニシズムがあって「どうせ変わらない」というムードがあるのかな、と思う。このことについて「絶対正解」な答えなどぼくから言えるはずもない。でも、昔だったらぼくも「誰が政治家になろうが変わらない」とかうそぶいていたかもしれないが、いまは信頼できる人とコミュニケーションを積み重ねて少しずつ学びの場でいろんなことを学び、できることをつとめてやっていくことに腐心したいなあと思うのだった。少なくとも、それがぼくにとってのベストソリューションであり、ある意味ではぼくのミッションなのかなあ……と。