グループにおける2つの意見・立場の対立が気になった。1つは、ぼくたちが英語の文を読み解きそこからコンテクスト(文脈)を真面目に追い、語彙(ボキャブラリー)を少しずつ増やしていくことに務めた方がいいというものだ。そしてまた、英語圏の文化を深く学ぶことも肝要だ、と。もう1つは実地で・実際に英語を話して流暢に・闊達に話せるようになるべきだというものだ。そして「生きた英語」をネイティブの方々から会話を介して学びたいとも。両者は正しい、実に説得力あるものだと思う。この種の議論はさまざまな形で繰り返されてきたオーソドックスなものとも思うが、いまなお「リアル」な、あるいは永遠の英語学習の課題とも思われる。
そんなこんなで、ぼくたちは次回(来月)の課題に日本の昔の知識人の岡倉天心が自ら記した英文(『茶の本』からだ)を使うことに決めた。そのミーティングのあと、ぼくは自分の気分がすでに書いたとおり参加者の方々の情熱によって深く深く動かされたのを感じた。こう言うことではないかなとも思う。落ち込んでいても、ぼく自身ほんとうに打ちひしがれてしまっていても、日々の実際の活動を通してぼくは癒やされる。たとえばそれは食事をいただいたり仕事をしたりといったことだ。そして、英語を学ぶことによっても。つまりぼくはそれだけ根っこの部分でノーテンキな人なのかなとも思う。
午後になり、次の木曜日のオンラインミーティングのプレゼンのための資料を作り始める。夕食後、日本の著名なノンフィクション・ライターの沢木耕太郎が編んだエッセイの集成である『バーボン・ストリート』を読んでみた。悲しいニュースのあと3日が経とうとしており、ぼくの気分も少しずつ回復傾向を見せている。それが人生なのだ。
認めたくないけれどもう、ぼくも若くないのだ。人生も後半戦。ただ、気持ちとしてはその気持を情熱的に保ちフレッシュにしておくこともできるのかなとも思う。今日お会いした皆さんのように。今日が世界の終わりってわけでもないのだから。