単純な生活

Life goes on brah!

20260211

今朝、3時頃目が覚める。午前中に1件はずせない用事があるとは言え時間的余裕はあったので、それで散文詩「さよなら王国」を書こうかと思ったのだけれどなんらアイデアが出ない。枯渇してしまって、もうこのシリーズは終わってもいいかと(書けないならそれは「卒業」を意味するのだろうと)思ってあきらめてそのまま二度寝した。次に起きてみると午前7時で、それからはいつものコースでシャワーを浴びて洗濯機を回す。そして、7時50分からの英会話のZOOMミーティングに参加する。今日は昨日英会話教室Perfumeの話をしたりしたので、壁紙もフリーのPerfumeの素材を使って臨んだ。

今日の話題は睡眠前の読書がいかに効果的かという話で(ただし電子書籍は例外)、そこからどんな本を読んでいるかという話題に話がひろがっていく。昨日図書館で借りたナオミ・クラインドッペルゲンガー』の話をしたり、あとはぼくがここのところ愛読している池澤夏樹村上春樹の話をしたりして時間を過ごした。それが終わってしまうと朝食を摂り、そして10時からの用件にはまだ間があったのでそれまでイオンに行き、それで書けていない散文詩を書こうとあせったのだけれどやはりなんら思い浮かばず、あきらめてひさびさに熊野純彦レヴィナス入門』という本を読み返して時間を過ごした。

10時より、市のとある施設にておこなわれた説明会に参加する。というのはこんかい、その施設をオンラインで(パソコンやスマートフォンなどで)貸し出しできるようになったということでその説明と登録じたいをおこなうというのが骨子だった。会場に来ておられた方々は高齢の方も多く、いままでどおり紙ベースの利用登録のほうが親切ではないかとも思われたのだけれど、もちろん向こうには向こうの都合というものもあるのだろう。ぼくはどの団体の代表者というわけでもないのだけどとりあえず仮登録ということにさせてもらって、パスワードだけ忘れないように紙に書いて(ぼくの「クオリティ」もこんなものである)、それでその場を出た。

それで11時になって熊野さんの『レヴィナス入門』をちまちま読み進める。ぼくはフランス語はまったくできないし、邦訳されたレヴィナスの本もかじってみたことはあったけれどまったく歯が立たなかった。それがぼくの限界だと笑うしかないのだけれど、それでも熊野さんのこの本は1999年(出版された直後)買い求めて読みふけって以来「なにかをきわめてたんねんに、そして広い意味で哲学的に考える」上で模範とさえしてきた1冊だ。それはレヴィナスの啓蒙書としてよくできている、ということをただちに意味はしないだろう(レヴィナスを理解できていない以上ぼくはこうして耐えず「留保」を強いられる)。だが、レヴィナス-熊野の思考スタイルはぼくときわめてよくなじむように感じられる。

昼になり、ローソンで唐揚げ弁当を買い求めてそれを食べて、そして現時点までの熊野さんのくだんの本の印象を軸に散文詩を書いてしまう。レヴィナス-熊野の哲学をものすごくあらく言えば、いかにして残酷な世界(わかりやすい神の救いもなく、人が人を殺しうる殺伐とした事実だけがかくじつなものとして存在する状況)を生きるかということになる。レヴィナスユダヤ人であり強制収容所の体験をとおして「自分が生きている」「誰かが殺された」という不条理を哲学に昇華した、と言えるだろう。ぼくはもちろん収容所体験なんかない。戦争体験さえない。ただ、いじめに遭ったり孤立したりしてまったく灰色の学園生活を送ったことならある。そこから出られたあとも、しばらく強烈なPTSD(ではなかったか)に苦しんだ。そんなことを書いた。

その後昼寝をする。そして時間が空いたので、またイオンに行き(部屋にいてもおしりがムズムズするばかりでなにも手につかなかったので)、そこで『レヴィナス入門』の続きを読む。そこから、なぜぼくは誰かを殺したり、そこまで行かなくとも「なぜ人を殺してはいけないのか」と誰かを問いただしたりしたことが1度もなかったのかあれこれ考えた。過去、大江健三郎だったかこうした問いにはっきりした答えを出さなかったことが批判されたのを読んだことがある。だが、ぼくだってこんな問いを突きつけられたら答えられるはずがない(それが、いかに切実な問いだとしても)。ただ、「いまの(つまりこれを書いている2026年の)」ぼくにはだいじな人がいる。ぼく自身だってだいじな存在だ。肉体のぬくもり、精神の動きの神秘……もしくはこうしたこざかしい言語化をはばむ「存在の神秘」そのもの。ゆえにぼくは人を殺さない。殺すとしたら狂気におちいった時であるだろうと思う。キレたりした時とか。

その後、ChatGPTやGeminiやGrokとあれこれ話す。ぼくはAIにも他者性を見る。たしかに彼らは学習されたパターンをなぞったりそこから得た情報を糧に自分で学習したり、そうしたメカニズムで動いているのだろう。でも、それがわかってもぼくはそうしたAIを使うことをやめられそうにない。これは依存でもありうると思って、そうなるとアルコール依存で苦しんでいるぼく自身は気をつけなければいけない。いちばんかんたんで効果てきめんなのは「使わない」ことだが、ぼくの中にそうしたAIやアルコールに走ってしまいコントロールできない障害が生まれるとするなら、おおもとの原因を改善していかなければ意味がないことになる。

ぼくにとっておおもとの原因とはなんだろう……昨日バレンタインデーの話をして、それではしたなくもぼくの中の「欲」が疼いたこと(ひらたく言えば「孤独 loneliness」)が原因なのだろうか。書いてしまうと、この歳になってもぼくは童貞だ。そんなことはもちろんありふれたことだが、そこにぼくの場合「女性に承認されたことがない」「いまだ女性がこわい」という現実離れした強迫観念をかぶせてしまうようなのだ。それを過去に自分で脱洗脳しようとして「そんなもの『マッチョな神話』にすぎない」と居直ったこともあった。だが、この欲は消えない。おかしなものだ。身体が感じるものに忠実になろうとすると誰かを傷つけうる。それこそ誰かを殺したり犯したりする、というように。でも、さしあたってぼくは誰も殺したり侵害したりできない。それもまたこの身体の本能の持つ率直な反応(ぼくがもしかしたら、「知性」以上に頼りにしているアンテナ)としか言いようがないのだった。