ありうる凡庸で無知蒙昧な、だけど決して笑って済ませられない偏見として……ぼくは実は若かった頃、そんな感じの高知能の持ち主たち(つまり、具体的には東大・京大といった名だたる大学に入れるほど賢い人たち)こそがこの日常生活のあらゆることを決めてしまうというか、なんでもかんでも問題をその知性で即座に「瞬殺」できると思い込んでいたのだった。ということは、ぼくは賢くないのでそんなふうになんでもかんでも決めてしまう賢い人たちにひれ伏すしかないと思いこんでいたことを意味する(たぶんそれは、いまで言うところのAIが持つという知性を過大評価し、それに過剰反応する心理とつながるだろう)。ああ、なんたるか! それはつまりエリート主義を盲信していて、つまり人の尊厳をとんとわかっちゃいなかったということになる。別の言い方で言えば、人の存在価値・命の重みはそんな知性では測れないほど深遠で神秘的だという単純明快な事実が腑に落ちていなかったのだった。いまはぼくは、なんとかそんな感じで個々人の存在や尊厳の重み・価値を学べたかな、と思う。人権や個人のアイデンティティから生まれる、つまり個性から来る重みというか。
でも、こんないまの考え方は言わずもがなだが独力であれこれ考えたりやみくもに読み漁った本から学んできたわけではない。Zoomやリアルでの発達障害絡みのミーティング(会合)に参加して語らったり、ぼくと同じく発達障害やそこからくる二次障害に悩む友だちとのLINEやリアルでの会話を通して、つまり気取って言えば「素肌で」学んだものだ。その事実を見るに、ぼくが巷で言われるところの「ギフテッド」なのかどうかはわからないけれど(でもこの文を読み返して思うに、悔しいけどぼくは自分がそこまで賢いとも才があるとも思えない)、だけどまざまざと思い知らされてしまうことはただ1つある。それはくどいが、他人を介して(つまり信頼できる人間関係によって)ぼくはここまで来ることができたのだ、という端的な事実だ。これはなにも謙虚に振る舞いたいとかいうのではない。誰へのおべんちゃら・社交辞令でもなく、実に簡明な事実を書いている。ドライに聞こえたら申し訳ない。でも、ぼくは少なくともこのことに限ってだけは嘘は書かない(書きようがない)。
今日は発達障害を考えるミーティングの日で、Zoomでミーティングを楽しむ。この町で運営されるグループホームのサービスについて学び、そしてぼく自身も時間をいただけたのでどのようにして自分が自分なりにコミュニケーション・スキル(会話術や社交性)を身に着け、また自尊心(自尊感情)といったものを自己内で育んできたかについて話した。今朝のように英語を学ぶことはそうしたステップにつながってきたと思う。ただ、ここでつまびらかに・事細かに書くわけにはいかないが参加者の方の体調不良などトラブルがあって会は早々にお開きとなった(むろん、参加者の皆さんの好意に感謝し彼らの快癒を祈る)。日本の今年の夏は「10年に1度」レベルの猛暑だとかなんとか聞いている。ぼくとしては心も体もそんな猛暑の中、熱中症やエアコンの涼風の当たりすぎに気をつけないといけないと思ったりもした。コロナ感染だって他人事ではない……そんなこんなで、夜はリービ英雄『模範郷』を少しずつ読んで過ごした。