そんな読書タイムにふと、ときおりあたりを見渡した。ぼくがいたフードコートでは文字どおり誰もが(老若男女というか、猫も杓子もというか)それぞれのスマートフォンを見つめて操作していた。LINEかネットサーフィンだろう。なんだか昔のアニメ「serial experiments lain」みたいな話になってしまうけれど、そういう光景を見てしまうともうこの星をすっぽり包みこんでしまっている世界的な常時接続のネットワークからぼくたちが「完全に」解放されるということはないんだろうな、と思った(こんな途方もなく機械オンチ・世間知らずなぼくでさえ外に出ると開放されたWi-Fiスポットを探すクセがついたくらいだ)。もしぼくがもっと若い頃にインターネットが存在していて、「グローバル・ビレッジ(世界村)」と出会っていたらどうなっていたことか。しばしそんなことを空想する。でも、なんだかそんなことがありえたとしたらたぶんいまごろは「ダークウェブ(ネットの闇社会)」で骨までしゃぶられむさぼり食われて、「カモ」にされるのが関の山かなと思った。
いまから遡ることウン十年前、前世紀の終わりごろそんなウェブの片隅でぼくは自前のウェブサイトを営んでいたことを思い出す。でもその頃はまだ発達障害のこともわからず、人付き合いで「揉まれて」成長する契機にも恵まれておらず、したがってただの手のかかる「ケツの青い」「半人前」の若造に過ぎなかった。友人関係ができたとしてもすぐ破綻してしまい、なかなか信頼できる友情をはぐくめず人間不信ばかりを自分の中で溜め込んでしまい、腐らせたものだ。いやもちろん、それはひとえにぼくの未熟というか「自業自得」からくるものではあった。だが同時に、いま思えばそういうぼくに必要だったのは信頼できる方との関係から生まれる「ケア」「ピア・サポート」だったかなとも思う(甘えているだろうか)。ボブ・ディランの名曲「見張り塔からずっと」が歌うような、そんな……いま、そんな事実を振り返りぼくを思う。ぼくはそんな「すばらしい」「信頼できる」人だろうか。誰かのそばに寄り添う価値がある……タモリよろしく「んなこたーない」と言いたくなる。ぼくが知る限りぼくほどヘナチョコで甘えん坊で、そして腹黒くてエッチな人間はいないと思う。いや、ホントの話である。
閑話休題。リービのそのすばらしい書物の中の、とりわけあるエッセイに目を惹かれる。どう自分を自己紹介として語りうるかが書かれたものだ。ぼくの場合、ぼくはデパートの従業員でありたしかに自閉症的・発達障害的な特性を備えてもいる。日本人のおっさんであり、ジャズや昔のテクノやブリットポップ(要するに90年代の音楽)をこよなく愛する。こうした諸要素からわかるのはぼくのアイデンティティがたくさんの事実から成り立ちうるという事実だ。たった1つのことがらがぼくを説明する、ということにはならない(もちろんこれは屁理屈・空理空論に入り込んでしまう妄想になるが、仮に考えようと試みるならぼくはこんな自分を構成する要素をそれこそ飽きるまでエンドレスに・際限なく見つけ出すこともできるはずだ。あれが好き、あれが嫌い……エトセトラ)。なら、そんなたくさんの要素が詰まったぼくとは、同時にたった1人でありかけがえのない、信頼できる人間としてこの世に存在できるものなのか。そんなことをあれこれ考えた。
考えつづけると脳が疲れる。ので、こんなクソ真面目なことを考えるのをやめてしばし休み……甘美でエロい白昼夢を楽しむ。上に書いたとおり、ぼくはそんな人間なのである。頭の中はぼく自身もぜんぜん・まったくもって把握できないたくさんのタスクがマルチで進行しているのが事実だ。したがって、ぼく自身がぼくのことをぜんぜん信頼していないのだから、実にまいっちんぐである。でも、これでもやる時はやっているつもりである……のだけれど、答えはそれこそディランに倣って「風に吹かれて」いるというのが現実なのかな。