跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/07/30 BGM: Kenny Loggins - Footloose

ぼくはものごとを考える際、基本的にこんな事実を顧みることから始める。実はぼくはいまだなお自分のことが賢いとはまったくもって思えない(思いようがない)という事実だ。いや、もっと言うと自分はつねづね「バカだなあ」とか「ダメだなあ」とか思ってしまい自分を自虐的に見つめるクセが抜けない。もっと言うと、こんなぼくのようにアホな人はなかなかこの世にいないのではないかとも思ってしまう。これはなにも社交辞令とか謙虚さとかではなく、まったくの本心。つねに(そう、いつだって)どんなにこのぼくが無知でうっかりミスが多いかそれこそバカなミスを重ねることで示していることを自覚する。いまだってぼくは自分の考えに自信がない(が、逆に言えばこうした自虐的な考え方だけは自信を持っているのだから困ってしまう)。たぶん他の人から見ればぼくはただの内気な、エッチな男なんだろうと思う。

過去にそんなぼくの内気な性格を変えたいと願ったことがある。そして、実際に努力して本を読み込んだり(それこそ自己啓発書から哲学書に至るまでだ)、あるいはたくさんの人相手にTwitterや匿名掲示板で政治や文学において喧嘩腰の議論を重ねたりしたことを思い出す。ぼくはその頃、「他人を完璧に論破できるパーフェクトな人間であること」がクールだと信じ込んでいたのだった。いや、いまならそれはまったくもって勘違いだとわかる。だが、いまでさえぼくは正直に言えばときおり、このぼく自身と異なりゆえに相容れない意見を持つ他人と過ごすのが耐えられないことがある。つまりそれだけ非寛容なところがあり、もっと言えばそんなに心は広くも強くもない。だが、もしぼくたちの意見がまったく同じであったら、もう創造的な対話を重ねてハーモニーを生み出して真実に近づくなんてこともできない。それもわかっている。まったく困ってしまう。

多分こんなぼくの中の態度、つまり他人と議論ではなく対話とハーモニーを好む性格は過去のトラウマに満ちた(飽きもせずこの日記でしばしば書いてきたような)記憶から来るのだろうと思う。いや、さっきも書いたが心は狭くてそんなに社交的でもなく、したがって誰をも寛容な対話を以て受け容れられるなんてことはできっこないにせよだ(ぼくだってしょっちゅう起怒ったり悲しんだりする。ああ、こんなややこしい矛盾が自分の中にあるとは)。

世界はどんどん変化し、いまはもう人工知能が幅を利かせる時代。広大なデータベースと即座になんでもかんでも答えてしまうChatGPTに代表されるテクノロジーが台頭してきている。いや、ぼくはChatGPTをめったに使わないのでこのことで知ったかぶるのはもちろんみっともない。だが、ぼくの意見は(もちろんそんな体たらくなので誤解・錯覚も含まれうるにしろ)人工知能のテクノロジーがはらむ欠陥の1つとはそんな感じて内部に「創造的な矛盾」がありえないことかなと思う。これはスラヴォイ・ジジェクの受け売りだが、人類とはえてしてさまざまなミステイクを通して真実を見つける(ひらたく言えば「試行錯誤」「トライアル・アンド・エラー」だ)。名探偵ホームズが親友のワトソンが示す貴重な誤謬から真実を見つけるように。いやもちろんこの論理自体も穴だらけだろうが、そんなふうに考えるとこの発達障害を持つ不完全極まりない書き手は慰められるのもまた確かである。