その頃、たしかに信じていたこと(というか、信じてしがみつくしかなかったことと言えばいいか)というのはこの世にはワン・アンド・オンリー、つまり絶対的に正しい唯一無二の最適解というものがあってそれを見つけさえすれば究極の幸福、絶対善、普遍的真実にたどり着けるというものだ。びくともしない、変わることのない絶対的な正解。だからぼくはそんな正解をもとめて村上春樹を読み漁り、ヘルマン・ヘッセやサリンジャーにも手を伸ばしてみたりした。そしてそんな絶対的な真実を目指してTwitterなんかで人と喧嘩腰で議論をしたりもしたのだった。強迫観念に取り憑かれていたな、と赤面してしまう。
オンリーワン、絶対に普遍的に正しい解というものがかならずあるはず……しかし、いま思うのはもしそれがありうるとしたらとても「普遍的な」、もしくは「普遍的すぎる」正解だろう。わかりやすく言えばそれはあまりにも非現実的な正しさ・普遍性を目指すことであってあまりにも滑稽で白昼夢的な話でもある。年老いてきて(つまりそれは、ぼくが落ち着いた大人になったということ……と思いたいのだけれど)、ぼくはこの世には「オルタナティブ」な正解(つまり「本流の正解」とは別の「傍流の(あるいは『邪道の』)正解」)というものがありうるんじゃないかと考えるようになった。別の角度、別のメソッドから見出されるそうした正解。
たとえば、ぼくは発達障害者だが発達障害はまぎれもなく障害(ハンディキャップ)である(あるいは脳の器質の持つ過剰さからくる「異常さ」とも言える)。しかし、発達障害とはいまの定義によればたしかグラデーションの上に位置づけられるものであり、そのグラデーションを見直していくと定型発達者と発達障害者の間の相違はさほどのものではない、とも言える(少なくとも、どの側面から見つめるかによって発達障害と定型発達の相違の距離は縮まるとは言えるのではないか)。
つまり真実とはパラドキシカル(矛盾をはらんだ)側面を持ちうる、センシティブ(繊細な)ものでもある。そんなこの世界の不条理な実相に対してどんなスタンス・態度で臨めばいいのか。ぼくが選ぶのはそうした実相に対して懐疑主義的に、あるいは複眼思考(山崎浩一)で臨むことかなと思う。つまり、昔の言い方で言えば相対主義を信じて心のなかでさまざまな本から得た言葉・結論の化学反応あるいは融合を楽しむことかなと。いや、もちろんこれはかなりタフネスを要求されることだが。
夜、疲れていたのでパラパラ鶴見俊輔『期待と回想』を読み返してそのまま眠る。