跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/10/01 BGM: 藤原ヒロシ - Natural Born Dub

今日から10月が始まる。昨日からぼくは長袖シャツを着て過ごしているのだけれど、まだ暖かく蒸し暑くすら感じられて今年は紅葉を楽しんだりその他秋めいたことができたりするんだろうかと考えてしまう。去年もそうだったような気がするけれど、今年は「秋がない」年になるんじゃないか、なんてバカげたことをあれこれ……今年の秋は国際交流協会主宰のハロウィンのお祭りや英会話教室などが控えているんだけれど、秋めいた雰囲気も味わえないままクリスマスに突入するんだろうか。なんにせよ、今日は早番の仕事をこなした。

Twitter(X)において、知り合いの女性の籠原スナヲさんが面白いポストを投稿しておられた。彼女は発達障害者たちが、自由を希求するのではなく代わりに絶対的に正しい、従うべき正解を求めて右往左往する心理について書いておられた。定型発達者たちは彼ら・彼女たちの信念が絶対的に正しいかどうかあまり信を置かない(そうしたことより、臨機応変に・その場その場でそうした信念を変えられるのかもしれない)。だが、発達障害者はそうしてしまう傾向がある。ゆえに結論として発達障害者たちはなにをするにしても「テンプレ」「ひな型」を求め、自分で作り出してしまいさえするかもしれない(なんでも自由に・お好みでやっていいよと言われた場合であっても、である)。それが逆に足かせとなって彼らの行動を縛って、窮屈にしてしまうことがあっても。そんなような話、と受け取った(多分にぼくの解釈も含まれている)。

彼女の言葉を重く受け止めたい。というのは、ぼく自身もきちっとしたルールに縛られたいと思ってしまう傾向があるからだ(ぼくは人が「好きにしなさい」「お好みでどうぞ」と言われたらひどく困惑してしまい、「テンプレ」を見つけるか作るかしようとあがいてしまったりする)。たとえば、遅番の勤務の日の朝に自由な時間を過ごす際、とてもヒマで自由すぎてしょうがないことに困惑していらいらしてきて、二度寝したいとか友だちと適当にチャットして時間をつぶしたいと思ったりして、でもいらいらが嵩じてなかなかそうもできずしょうがなくイオンに行ってそこで本を読む。だからぼくはマジメな読者ではなく、そうしないと気がすまないからそうするのである。

これは哲学的な話とも結びつくだろう。現代人が持ちうる問題……たとえば、自由な環境に置かれて束縛するものがなにもなくなったとしたら、人はそうしたシチュエーションを過ごす・楽しむための手がかりを求めて自分なりに補助線を引き始めるかもしれない。サルトルがこうした矛盾を説いていたのではなかったか。もちろんぼくはあなたが発達障害者なのかどうかわからないが(ただ、ぼくたちは発達障害者・定型発達者を問わず同じ「スペクトラム」「グラデーション」の上にいることは事実だろう)、少なくともこうした説はどうして自由がいらいらする・時に不快で有害きわまりないものとなりうるのか教えてくれる。そして、ルールを求めてあがき始めるだろう。その場においてはカリスマ的な人のご宣託「好きなように生きろ」がむなしく響く理由ともなりうる。そんなことを考えた。

夜になり、LINEで人と語らう。そこにおいてチャットの参加者がぼくに友だちを何人求めるか訊いてこられた。数えたことはないが、ぼくには友だちは多くいる(彼らがぼくのことをどう思っているかはわからない)。だが、ぼくは基本的には「小さな・こじんまり居心地いい雰囲気の居酒屋やレストランが埋まるほど」友だちがいればいいと思う。昔は千人・万人規模友だちを求めたが、思えばぼくはそんなに目立ったり人望を集められたりできるようなタマではありえないのだった。