今週のお題「上半期ふりかえり」
今日は休日だった。今朝、友だちと一緒に発達障害を考えるミーティングに参加する。今回はいつものようなZoomを起ち上げるのではなく「リアル」「オフライン」でのミーティングで、町のとある公共施設を借りて行うことになった。さまざまなトピックがぼくを含めた参加者の間から出てきて、したがって面白い会になったのではないかと思う。「市の環境(とりわけ発達障害者に対する風向き・風当たり)はどう変わったか」「トラウマ含みの思い出にどう対処するか」などが挙がった。そのミーティングの席で、他のメンバーからこんなことを指摘された。というのは、このぼく自身がトラウマに満ちた思い出をまさしく「現在の」(つまり、そのトラウマとは文字どおりなんら関係もなく責任も負いようのない)メンバーにLINEグループなどで吐露していることだ。実に「痛い」が、同時に「誠実な」「親身な」コメントだと受け取った。それで適切に答えられずオタオタしてしまったのだけれど、でもそんなトラウマ含みの思い出はぼくは(昔はもっと被害者意識が強く、したがって誰彼問わず・なりふり構わず「宣伝」すらしたことは認めるにせよ)少なくとも現在はまさにその方々を「仲間」と認めるから「甘えて」吐露してしまうのだった……そんなことを話しても見放さず、めんどくさいと思われていようが「見つめて」くれているという信頼のなせる技というか。そんなことを、まさしく「即興」で話してしまった。でも、これはぼくの本音だ。
そのミーティングのあと、図書館に行き本を返す。そして岩波文庫から出ているシモーヌ・ヴェイユの『自由と社会的抑圧』『根をもつこと』などの本を見つくろっていると突然、ゲリラ豪雨に見舞われてしまい立ち往生してしまった。司書の方の許可を得て雨宿りをして……そこで英語のメモを書き書き本を見渡す。言うまでもなくたくさんの本が整然と並ぶ空間がそこにあった(ああ、なんだかサルトル『嘔吐』のワンシーンのようだ)。上述した発達障害を考えるミーティングに参加し始めた時期、実を言うとぼくはたくさんものを(とりわけ本を)買い込みすぎる買い物依存に困り果てていたことを思い出した。当時はぼくは愚かにもたくさん本を持ち積み上げると(したがって「読むと」ではない)、もっと満たされると思い込んでいたのだった。アホだったといまではわかる。いや、いまだって衝動買いの欲求は感じるけれど(だから古本屋にのんきに行って、性懲りもなく衝動買いしたりするのです)。
たやすく見て取れるとおり、いつだって月の終わり・給料日前にはぼくは次の給料が出るまでほんとうに乏しいお金でやりくりしなければならなくなってしまい、実にひもじい思いすらしたのだった(いまのグループホームに移ってからも、最低限の利用料すら払えなくなり苦しんだりもした)。いま思うに、当時はそんな感じでお金を貯められず内田百閒ばりに使い込んでしまう自分の内面の問題を見つめるべきだったのだと思う。たとえば、当時ぼくは上に書いたようなトラウマに悩まされていたりもした。あるいは未来に関する普遍的な悩みについても(老後は悲惨だろうなとか、孤独死もありうるんだろうなとか)。言うまでもなくそれは買い物とは「直接は」絡まない。でも、そこから目を逸らしていい理由にはならなかった……少なくともいまはぼくはそう思える。
もちろんいまもってなおぼくはリッチではない。サクセスの街道を歩むカリスマあるいはアルファでもありえない(客観的に見るならぼくはただの「凡人」だ)。でも、上に書いたようなミーティングに参加させてくれるきっかけを作ってくれた友人との出会いが縁で、ぼくはどう幸せをつかんで満喫するか理解できるようになったのだと自負する。ありがちな話だが、たくさん持つことではなく限られた持ち物をどう繰り返し味わうかなのかなとも思えるようになった……そんなことを考えて今日、20年ほど前に買った坪内祐三『新書百冊』の読書を楽しんだ(それにしても、こんな読みごたえある本がいまや入手困難とはさびしいものだ)。
2024年上半期ぼくが読んだ本ベスト10(順不同)
R・D・レイン『引き裂かれた自己』
沢木耕太郎『ミッドナイト・エクスプレス』
ミア・カンキマキ『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』
江利川春雄『英語と日本人』
西部邁『虚無の構造』
菅野久美子『孤独死大国』
高橋源一郎『DJヒロヒト』
澤田直『フェルナンド・ペソア伝』
松岡正剛『フラジャイル』
佐々木敦『「教授」と呼ばれた男』
惜しくもこの中には入らないけどグレゴリー・ケズナジャットの本はこれからも読んでいきたい