言うまでもないことだが、そもそもぼくはこの件に限らず「発達障害当事者」ではあっても「医師」や「プロのコメンテーター」ではまったくもってありえない。エスパーでもない。だから、フワちゃんがそうした発達障害者なのかどうか診断することはできるわけがない。ただそんなアンポンタンなぼくでも(たぶん「誰でも」?)言えそうなこととして、どんな人であろうが、その人が発達障害者か否かなんてどうでもよく暴言は暴言なのである。発達障害者であるということがらをジャッジの材料にして暴言を許すことは、それこそ発達障害者を属性だけで(「だけで」というのがミソです)優遇する「逆差別(そして、あらたなかたちの差別)になるとぼくは信じる。また、そうしてしまうとその人を甘やかすことにもなるのではないか。マナーもしくはエチケットの問題として、この暴言の件は問われる必要があるだろう。
別の興味としてこんなことを考える。いったい、どうしたってそんな「毒」「暴言」をぼくたちはわざわざインターネットに書くのか。ぼくが若かった頃、実を言うとぼく自身もさまざまな暴言を書き込んで悦に入っていたクチである。他人をこっぴどくこき下ろし、ことに有名人を引きずり下ろそうと躍起になっていたことを恥とともに反省し、ここで告白しておきたい。でもそうした暴言は名無しの(匿名の)弱者からのものだったが、フワちゃんの場合はそんな無名というわけでもなかったのだからもっと別の角度から見るべきかもしれない。なんにせよこの件、即座に決めつけるのは危険と思う。少なくともぼくごときがそんなことをすれば、それこそあらたな火種を生み出す危険だってある。
今朝、本を読んで時間をつぶすべくあれこれいつもながらイオンで粘った。だけど理由はまったくもってわからないけれど、そうできなくて往生する。読書をあきらめ、メッセージをLINEしたりメールしたり友だち相手にあれこれ送りまくる。ああ、このインターネット時代はたしかにぼくたちを固くつないでいるけれどそれでもこんな孤独感をこじらせてしまい、バカを晒してしまうこととなる。内なる弱さをどう律し、うっかりして晒さないようにするべきか。フワちゃんのことを考えて、この件が好個のテキストになるかなとも思った。いや、皮肉ではなく。