跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/08/06 BGM: Blur - Mr. Robinson's Quango

今日は早番だった。今朝、仕事をしながらぼくはこんな過去を振り返ってしまった。とりわけ、30代の頃ぼくが発達障害者と診断されてまだそう日が経っていなかった時期のことをあれこれと……いまや時代はすっかり様変わりし、あっちこっちで発達障害についてたくさんの情報を目にすることができるようになった。インターネットにおいて、あるいは市役所や書店の店頭で発達障害について書かれたパンフレットや書籍を目にすることもそうめずらしくはないだろう。だが、ぼくがまだ発達障害者と診断されて間がなかったあの頃(2000年代のことで、まだあのころは「アスペルガー症候群」というタームも使われていたと記憶する)、情けない話だがこの当事者たるぼくでさえ発達障害という概念がなんのことなのかまったくといっていいほどわからずうろたえて困り果てていたというのが正直なところだった。

昨日は忙しくてバタバタしていたが、そんな中フワちゃんが起こした一連の騒動のことについてぼくなりに非常に粗く書いてしまった。彼女は発達障害の疑いが濃いということ……そのニュースのみならず、今日ぼくはTwitter発達障害に関連したさまざまなディスカッション(「言い争い」含む)を目にし、自分の見解をこれまた粗く書き込むこととなった。まず、アホなことを書くが発達障害という概念が非常に有名になりこうして簡単に「発達障害」と書くだけでかんたんに意思疎通が成り立ちうる状況が整備されてきたことにシンプルにぼくは驚く。いまや「発達障害」という言葉を書くだけでさまざまなニュースがヒットし、情報共有が可能となってきている。この驚きを書いておきたい。そしてこうした状況を用意した先駆者たち(ここに至る道を整備してきた人たち)のことを思い、感謝する。

でも実を言うと、この状況下では発達障害者たちの間でさえも見解の相違が見られる。いや、それはもちろん当然のことだが、それが「あいつは困っていない」「おれこそ困っている」といった分断を生み出しバラバラにぼくたちを細分化させていることは見過ごしがたい。ぼくはただ「この地点」から見える景色を個人的にスケッチすることしかできないが、たとえば発達障害者が運営する発達障害者向けに特化した(さまざまな困りごとをシェアできる)バーがあることについて「おれたちとは違う」「そうしたバーでエンジョイできるのは困っていない証拠だ」と主張したりもしていると見る。たしかにこの批判は当を得たものだろう。だが、こうしたバーを運営して自助グループ代わりに提供する尽力は貴重なものとも思うのでもどかしい。両者が相互に譲り合える落としどころがないものか。

日記にも書いてきたが、いまや「多様性」の時代。そして、もっと言えば発達障害者と定型発達者を取り巻く重要だがひどく曖昧模糊とした概念「神経多様性(ニューロダイバーシティ)」の時代とも言われている。これを望むかどうかはともかくとしても、毎日毎日こうした概念と接することが求められているのは明らかなことと思う……と書いていて思ったのだけれど、あなたはどの立場に立っているだろうか。これを読まれている方はぼくのような発達障害者であるかもしれないし、定型発達者(俗に言う「健常者」)かもしれない。発達障害の考え方はぼくの理解によると自閉症スペクトラム障害とも呼ばれ、つまりぼくたちの脳の特性はあるグラデーションの上にある。つまり、発達障害の特性の「うっかりミス」「時間にルーズ(もしくは逆に異様に几帳面)」「雑談ができない(もしくは異様にマシンガントークになる)」といったことは「濃淡」「程度の差」の問題とも言える。でも、場合によってはそうした事実を踏まえつつも「あの人は発達障害だ」「いや健常者だ」といったことを区分しないといけないのであって、そんなことをあれこれ考えていくとほんとうにまいっちんぐだなとも思う。