ぼくはしたがって、ヒートアップして熱くなってしまいそうな自分の感情をつとめて冷ましていき他人と喧嘩腰の議論(言い争い)をしないようにしないといけない。もちろんいくつかの議論は(自分で言うのも変だが、ぼくは豆腐メンタルなので)困惑もさせるし腹立つこともある。30代の頃、ぼくは強くなりきろうと思い立ちあれこれヒールを気取ってバカな書き込みをしたりした。人をロジックで叩きのめすことが強さだとも信じていたりもした。思うに当時は強固に組み立てられた、他人を圧する論理が世界を制覇すると信じ込んでいたのだった。そんな思い込みに支配され、バカなことをした。
そんな間違いを経て、いま心に保ち続けているぼくなりの格律はこんなものになる。これは頷けると思った意見にイエスと言い、疑いがある意見はノーと言ってみるということ。つまり「是々非々」で意見に対峙するというきわめてめんどくさい態度をぼくは自分に課している。それはあらかじめ「リベラルだ」「保守だ」といったアイデンティティを背負わず、したがってそうしたラベリングをいったんカッコに置いておいてそれぞれの意見を虚心に見つめることを意味する。そして、本能的な感情を信じる(なんだかブルース・リーみたいだけど)。頭でガチガチに考えたロジックよりも本能をぼくは高きに置く。
Twitterのタイムラインを読んでいて、何人かの発達障害者が他人と比べて真に弱者と定義づけられる者は誰なのかを明かし、彼らこそ真にケアされるべきと唱えていること(そこから逆算して「誰それは困っていない」と指弾すること)をあからさまにしているのを読み、絶句してしまった。個々人のハンディキャップ(障害)に序列・順列を設け誰が誰より困っていてゆえに障害者の名にふさわしいか考えているのだった。いや、こうした考え方に部分的にリアリティがあることは認める。でも、ぼくの視点から見て発達障害者の間に序列を設けることはあらたな差別になりはしないか(困りごとがあり、ゆえに「障害者」という一点でつながれる可能性を持つぼくたちを分断していないか)ということが気になる。それはあらたな、弱者の中で起きるアイデンティティをお題目にした差別ではありはしないか。
もちろん発達障害者の間でさえも、障害は文字通り千差万別のかたちをともなって現れうる。たとえばぼくは本が好きだが、シンプルに漫画を読めない。だがまったく逆で漫画は読めてデザインに才を現す発達障害者もごまんといる。そうしたハンディキャップのバリエーションは、障害においてぼくたちが平等ではないことを現す(少なくとも、障害の出方がそうして異なりうることをかんたんに「発達障害者」としてまとめることがむずかしいという事実はあると思う)。だが、綺麗事にも聞こえようがぼくは基本的にはそれぞれの障害はかけがえのないものであり、それぞれが背負うミッションでもあると思っている。そうした障害の独自性・偶有性を踏まえてそこから普遍性にどうつなげたらいいのだろうか。