跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/05/14 BGM: Spiral Life - Dance To God

今日は書くこともなく、ぼんやりあれこれ考えてふとこんなことに思い至った。いったいぜんたい、なんでぼくはニーチェハイデガーウィトゲンシュタインといった哲学者を(日本なら中島義道野矢茂樹宮台真司や三木那由他といった書き手の本を)読むのだろう。わかるわけもないのに。90年代、ぼくがまだ青二才だった頃、流行っていたのはドゥルーズガタリデリダフーコーや日本では東浩紀といった人たちだった。でも、さすがに東浩紀存在論的、郵便的』はめくったかもしれないがあとはこれっぽっちも読まなかった。というのは単純に「なんだか難しそうだし、ぼくのアホな頭ではわかりっこない。時間のムダだ」と思ったからだ。なんら役立つことなんて引き出せないだろう、と(でも、矛盾するがその一方で当時から流行り始めていたスラヴォイ・ジジェクによるジャック・ラカンの解説書や映画などの大衆文化の論考はめくったりしたかもしれない)。お前ははアホだバカだマヌケだ、という心の声にいまだそそのかされるままに、そうした哲学とは無縁に生きたのだった。

そして40代がはじまる。町にある古民家カフェで友だちと出会いを果たし、その友だちと語り合ううちに彼ら・彼女たちがぼくの言葉には「哲学的」な香りがすると言ってくださった。ほぼ同時期だったろうか、Discordである人にニーチェサルトルを読むことを薦められた(彼と二、三英語でチャットで哲学談義をしたのだ――いや、他愛もない次元の話だが)。その頃までにもぼくはビギナーズ向けの「やさしい」入門書や「軽い」エッセイ程度はかじっていた(土屋賢二池田晶子などが書き記すおちゃらけた、だが同時におそろしく鋭利なエッセイからはいまも影響を受けていると自負する)。でも、そうした出会いから勇気を出してニーチェツァラトゥストラかく語りき』やサルトル『嘔吐』、ハイデガーニーチェ』などを読んでみたりしだすようになったのである。

いや、いまだってわかっているかどうかというと上に挙げた人たちの本に関しては「まあまあ」「だいたい」程度のことしかつかめていない。でも、そうした本に加えて春樹や池澤夏樹スティル・ライフ』『マシアス・ギリの失脚』などの本を読み返したりしたことでぼくは(さすがにもう若くないことをひしひしと意識したりしたこともあって)、自分のことがらにこそ考察を自分なりに深めることにした。トレンディな「いまふう」の話題ではなく、だ。すると、本が教えてくれるのがコミュニケーションをめぐる問い(とりわけ「言語」「ことば」が生み出すコミュニケーション)であること、あるいはこの社会や世界と自分をめぐる関係性であることが見えてくる。なんでこんなふうに書きなぐる言葉があなたに伝わるのか。言葉ってなんだろう……なんて。

だから、ぼくはつねに自分自身の内から湧き出ることがらについて向き合って考えている。ソーシャルというか外界の話題ではない。いや、たしかにそうしたことがらについて考えるのは大事だ(いまなら「ポスト・トゥルース」がどうとか「ポリティカル・コレクトネス」「ジェンダー」をめぐる問題が挙げられようか。もちろんもっとあるはずだ)。でも、ぼくの力ではできるのはここまでなのだった……こう考えていくと、泣く子も黙るあのウィトゲンシュタインこそがそうしたぼくの問題についてぼく自身が考えることを示唆し、導き続ける人なのかなと思う。ぼくのやり方、マイウェイで考えること……。

ウィトゲンシュタインが教えたのは「やり方(メソッド)」だと受け取る。「解答」「マニュアル」ではなく、だ。もちろん、ウィトゲンシュタイン的に言えば「私はそんなこと言った覚えなんてこれっぽっちもありゃしない」という「言語ゲーム」の罠だってありうる(し、実際に会ってみたらウィトゲンシュタインはものすごく付き合いにくい人だったというコメントだって読んだこともあるのを思い出す)。