跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/01/29 BGM: Hiroshi Fujiwara - Natural Born Dub

今日は遅番だった。実を言うと、今朝ぼくはつらい、陰鬱な思いをたしかに感じた。でもどうしてそんな鬱な思いを感じてしまったのか、はっきりした理由はまったくわからない。その思いを一蹴することができず、どうしようもなくつらい思いをしてしまった。こうした思いは注意深く扱わないといけない。ぼくの人生において、これといってトラブルとなることは起きていない――いやもちろん、お金の使い方はいまでも頭を悩ませる問題だ。そして、ここでは書けない個人的な問題をあれこれ抱えている。でも、そうしたことがらを解決する意志はたしかにある。なら、どうしてこんなうっとうしい鬱を感じないといけないのだろう。

こうした話題になると、ぼくはある1冊の本のことを思い出す。若林正恭が推薦している本である、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』だ。この本によるとハイデガーは退屈のあり方としてこんな種類の退屈があると説いているという。それは身も蓋もないが、「たんに退屈である」というものだ。つまり、特に理由なんてなくても「たんに退屈である」。そこにいること、生きていること自体がすでに「退屈である」。國分功一郎ハイデガーの議論を、ぼくはこう受け取る。

ならば、こう言えるかもしれない。ぼくにとって、この世界にいることはすでに退屈で疲れることだと――というのがほんとうなら、どうやってこの考えを扱うべきなのだろう。生まれついての厭世主義者として。過去にぼくは、元友だちからそんな退屈や生きづらさを感じるのは必ず理由があるから突き止めるべきだと言われたことがあった。でも、ぼくの観点から言えばぼくはそんなつらい不安・生きづらさを感じてしまいがちなのは理由なんてないとしか言えない。ぼくは怠けているのだろうか。

とりあえず・暫定的に結論を出すと、ぼくはこの試みを止められそうにないことはわまる。アイデアを深掘りしてそれをこんなふうにメモパッドに書きつけていく、というものだ。今朝も、ハイデガーニーチェ』の続きを読もうとして読めなかったのであきらめて、上に書いたようにぼくの生活について考えた。実にテツガク的な営為だ。

過去に、ぼくは考え方におけるこうした「テツガク的」な要素を嫌った。とても「ダサい」と思ったからだ。なんだか「陰キャ」「ネクラ」だなあと……でも、いまはぼくはこんな「ダサさ」を誇れる。これがぼくでしかないからというのもあるし、こうしてぼくのダサさはぼくを形作ってきたからでもあるのだった。居直り、ということになるだろうか。