跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/08/15 BGM: Pop Will Eat Itself - Not Now James, We're Busy

今日は早番だった。朝、さすがにこの台風一過の中バイクで通勤するわけにもいかないので歩いていく。そして仕事を始める。仕事前はどうなることかと思ったが、やってみると何とかこなせた。昼休み、すっかり人のいなくなったイオンで半額になっていたお弁当を買い、それを食べる。イオンももうお盆が終わりつつあるということで秋の装いが始まっていた。夏も終わるのか……この仕事を始めてからこんな風にお盆期間も仕事・仕事で暮らすようになり、したがってまとまった夏休みを取るということもできない。いや、不満があるわけではないのだけれど……ぼくは根っからの貧乏性なのかせっかちなのか(どっちも発達障害から来ている気もするけれど)、休みをもらってもその休みに「飽きる」のだった。いや、これはほんとうにぜいたくな話ではあるけれど何なら生きていることそれ自体に倦怠感・疲れを感じているとも言える。これは一方では「それはあんたが生ぬるい平和な日本に暮らしているからこそ言えることだ」という話になる(だから「ぜいたくな話」と書いた)。この平和は過去、さまざまな戦争の惨禍で苦しんだ人たちの苦労があってのことだ。戦争、ひいては亡くなられた人たちの生と死を肯定するか否定するかは議論の余地があろう。だけど彼らがとことん苦しんだことまで疑うつもりはない。今日はそんなことを考えた。

だが、詩にしてそうした事柄(つまり「戦争や平和とは何か」「人の死はどういうことを意味するのか」)を扱おうとしてもいつも空振りに終わるのが常なのである。今日の詩でも、死についてぼくなりに考え始めたつもりがそれが『完全自殺マニュアル』の話になりそしてFacebookの知人の話へと思いっきり脱線してしまった(転落事故さえ起こしたかもしれない)。とんだ詩作もあったものだ。だけど、そうして書く過程で「語るは最大の治療なり」という断酒会の鉄則/セオリーを思い出させられた。それがぼくがつい最近になって考え始めたこととつながる。自分の中で思いを溜め込むことをせず、それが時に「失言」「言葉足らず」の可能性に陥るとしてもともかくもライブ感というか、その時にしかできない「勢い」に任せて語り尽くしてしまうこと。「吐き出す」こと。それが大事ではないかと思ったのでそれを詩に表現した……と、こんなことをしたり顔でカッコよく(?)語ってしまっているがいつも書く時は「いきあたりばったり」の「ぶっつけ本番」である。ただ、そうして書きなぐったものをそのままウェブに載せることはしない。夜に清書してブログに載せることにしているのだった。じっと我慢の子。

それで仕事が終わり、徒歩で帰宅する。思っていたほど雨も風も強くなかった。その後夕食を摂り部屋でくつろぐ。松浦寿輝『わたしが行ったさびしい町』を読む。これは松浦寿輝が書き記したさまざまな「さびしい町」に関する旅行記で、ぼくは旅行というものをぜんぜんしないのでその点参考になるところが多かった。ナイアガラの滝を見に行ったり台南に行ったり、アクティブに動いていることに唸る。人は基本的に旅に出る時、その旅を「一過性」のものとして楽しむのではないかと思う。もちろん「気に入ったからここに住もう」とか「将来はここに住もう。今回の旅はその下見だ」と考える可能性もなくもないけれど、それは稀なことではないか。旅とはどこか無責任・ノンシャランにその地を「通過点」として楽しむ活動形態ではないかと思う。それはそして(なんだかもったいぶった、しかもそのわりに陳腐でもある書き方になってしまうが)「人生」と似ている。ぼくたちの人生もまた漂泊・流浪の活動であり止まることはない。止まるとしたらそれは死ぬ時のことだ。生きていることを「旅」として捉えると、ぼくたちの生はそうしたあてどのない「旅」の連続であると言える。

畠山地平を聴きながら読んだ『わたしが行ったさびしい町』を読み、ふとぼく自身にとっては「読むこと」もまた「旅」ではないかと思った。ぼく自身が体験できない・できなかったこと、そして誰かが体験・想像したこと。それが紙やディスプレイに刻み込まれ、いまどきの言い方をすれば「シェア」される……そうして読んでいく過程でぼくは松浦寿輝の筆致についつい彼が敬愛する(そしてぼくも好きな書き手である)吉田健一大森荘蔵の残響を聞いてしまった。当たり前のことがらに立ち返ると、書いている時は「旅」をいったん離れて書く作業に取り組んでいるわけだ。そこではメモを参照することはあれど、基本的には記憶に頼らざるをえない。だが、その記憶はどこまで確かだろうか。松浦寿輝はこの『わたしが行ったさびしい町』を書く過程でそうした記憶の確かさ(あえて難しく書くと「認識の限界」……なんだかウィトゲンシュタインみたいだけど)をも問うているように思った。そうした誠実・愚直な思考のたたずまいこそがぼくが彼を敬愛・尊敬する理由である。今回の読書でぼくはさっそく彼が好意的に触れている阿部昭の本を読みたくさせられた。ぼくも阿部昭の『単純な生活』は好きだからだ。