跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/08/17 BGM: 電気グルーヴ - スネークフィンガー

今日、ぼくは職場で外部の方と(仕事とはまったくもって関係ない「雑談」として)ぼくが書いている詩の話をした。「難しかった」と言われてしまった。そう思わせたということはつまり、ぼくの書くものが「まだまだ」ということだと思っている。あるいはぼくの主観として、はなはだ勝手ながら「これ以上わかりやすくすることは(ぼくの力量の限界によりついに)できない」とも思っている。いずれにせよ縮めて言えばぼくが「ヘボい」ということなので気にしないでほしい(その方にもそのように伝えた)。渋谷陽一的な「『少年ジャンプ』的に売れるものはすばらしい」という意見をまるごと全肯定するつもりはないのだけれど、それでも「人口に膾炙した」「多くの人が口ずさめる」ものを作り出すことはなかなかできるものではないし、ましてそこに「深み」「広がり」をもたらそうとすると相当の狡知やたくらみ、あるいは才能やセンスが必要となる。言うまでもなく、「ヘボい」ぼくには逆立ちしたってできる芸当ではないのだった。志やプライドとして「低すぎる」「安易すぎる」かもしれないが、ぼくも書けるなら1編でも谷川俊太郎『二十億光年の孤独』や高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』(ぼくの勝手な基準ではこの本は「長編詩」としても読める)にあやかりたいと思っている。

月末(31日)のミーティングで発表する話題を練っていた。最初は「たま」の「さよなら人類」や「らんちう」について(なにせあんなにヒットしたのだから、さっきも書いたとおり確実に人の心をつかむ力があるすばらしい詩でありうるということで)語ろうかなと思っていたのだけれど、今朝たまたまヒラサワ(平沢進)を聴いていたらあらためてその言語感覚や幻視する世界にうっとりしてしまった(ぼくはそんなに敬虔な「馬骨」ではないのだけれど)。「金星」や「Mermaid Song」を思い出し、前者があらためて興味深い(が、問題も孕んだ)ラブ・ソングだなと思う。「ボクはキミだからと」という言葉を、かつて「自他あるいは主客の区別のついていない『幼稚きわまりない』境地」とさえ断じていた恥ずかしい過去のことを思い出す。今はぜんぜん違うことを考えている。言うまでもないが「金星」は彼のエッセイやアジテーションではないので、あえてそうした「幼稚」あるいは「原初的」な境地を歌うことを彼の主張がナイーブ/ストレートに現れたものと捉えるのはそれこそ「幼稚」で「単純」すぎる。そう思って対峙するとこの詩は読めば読むほど、噛めば噛むほどに旨味を増す。向き合い、読み込む価値はあると思った。

恥ずかしながらまったくもって知らない方だったのだけれど、灰街令さんという方に関するツイートがTwitterで(今はXと呼ぶべきかもしれないが知ったこっちゃない)流れてきた。それで、彼女が運営するDiscordのサーバに参加させてもらった。さっそくぼくが作っている詩のブログについて投稿する。ぼくは灰街さんや他の方々のような現代音楽やクラシックに関する素養・教養はかけらもない。だから「場違い」「外様」な感じもするのだけれど「それはそれ」で「ジャズの話もさせてもらえないかな、ウェス・モンゴメリーみたいな」などと考えているのだった。そこで詩についてもあれこれ話が盛り上がる。考えれば、ぼくはこれまでずっと文系の空間というかグループ内でうろうろしていた。文学や詩について話すばかり……だからそうした世界から一歩出てこうして別の空間に赴くと新鮮に感じる。できるなら(むろん、場のディーセントというかエレガントな空気を壊さない形で)ぼくが関心を持っていることがらについても話させてもらえたらと思った。そうして別の空間というか異世界にホイホイと赴くこと、そして多種多様な世界を「知る」ことがぼくは好きなようだ。いや、一方では自分のルールやルーティーンにこだわりを持つ発達障害気質の持ち主でもあるのだけれど。

こんな感じで書きながらふと、ぼくは「ぼく」という一人称を乱発・連発しすぎているのではないかと不安になり始める。ぼくはもともと「僕」という一人称を使っていた。これは村上春樹大江健三郎片岡義男といった書き手が持つロジカルというかクリスプな、理知的で端正な雰囲気にあこがれを抱いたからである。その後「でも、この『僕』もなんだか堅苦しいな」と思うようになり始めたので「私」という一人称を使うようになった。だけどこれも(ぼくは実にわがままなので)「なんだかエラソーだな」「思えばぼくはリアルではずっと『ぼくは』という一人称で『しゃべって』いるな」と思うようになった。威張っているような響きを感じたのである。そこで、もともと山崎浩一やあるいは野村修による日本語訳のヴァルター・ベンヤミン、あるいは高橋源一郎池澤夏樹田中小実昌といった書き手の影響もあってすっとぼけた響きのある「ぼく」を使うようになった。でも、こうして「ぼくが」「ぼくは」と書きまくっているとなんだかほんらい「黒子」「影武者」であるはずの書き手のエゴが出まくって村西とおる的な暑苦しさに至っているのではないかと心配になり始めた。いったいどう映っているのだろうか(それはそうと、阿久津隆の新刊が出ていたのか!)。