跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/09/05 BGM: Spiral Life - Game Over

特別お題「わたしがブログを書く理由

ぼくの「ブログを書く理由」についてあらためて考えてみる。ぼくの場合、書いているのは何ら公共性を備えた話題に満ちたニュース記事ではなく単なるぼくの日常の記録すなわち日記なのだけれど、ではどうしてそんなものをシェアし続けているのか……やろうと思い始めたきっかけは別段高尚な理想があったわけではなかった。ぼくは(これについて話し始めると長くなるのだけれど)DiscordやMeWeなどのサービス/ソーシャルメディアを通して海外を含めていろんなところに友だちがいるので、彼らに対して何かぼくの思っていることをシェアできないかと思って、それで「じゃ日記でも書いてみるか」と思うようになったのだった。当初は英語と日本語で頑張ってせっせと毎日日記を書いていたのだけれど、そこはそれ、ぼくもアラフィフになり精神力と体力に限界を感じるようになって英語での日記執筆はできなくなってしまった。それでいまは日本語で日記を書き、その一方で最近書き始めた詩を英語と日本語で投稿するようになった。そして余力があれば日本語で書評を書くようにもなった。ただ、この機会にあらためて「なぜ書くのだろう」と考えてみてもびっくりするほど何も浮かんでこない。

ただ、何も思い浮かばないなりに無理矢理に答えを絞り出していくと「書くこと」そのものをめぐって自分も真剣に悩んだ時期、あるいは考察した時期があったことが思い出せる。ぼくはそうして「書くこと」の本質にぼくなりに迫ろうとしてさまざまな書き手の本を読んだ。リルケ『若き詩人への手紙』や『マルテの手記』、金井美恵子『岸辺のない海』や『書くことのはじまりにむかって』、ポール・オースター『空腹の技法』といった本だ。カフカ堀江敏幸の姿勢からも多くを学んだとぼくは思っている(彼らほど敬虔に、あたかも「祈るように」書くことはついにできていないにしても)。だけど彼らは彼らであり、ぼくはぼくの人生と向き合ってぼくなりの答えを編み出していくという姿勢/作業が必要となってくる……さらに思い出すのは、過去のぼくはそうして文学書を素朴に親しむ文学青年であり作家志望の青二才であったということだった。それが変化するのは40を過ぎて発達障害を考えるミーティングに参加するようになって、そこで会った方から「考え方が哲学的ですね」と言われたことで「哲学も読んでみたら面白いかもしれないな」と思った。そこから、前々からかすかに関心があったウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』『哲学探究』をかじってみるようになったのだった。

ウィトゲンシュタインの哲学についてくわしく書けるほどの素養/教養をぼくは持ち合わせていないのだけど、ウィトゲンシュタインを読んでいると実に不器用に「この世界とは何だろう」「『痛い』という感覚とは何だろう」といった次元で躓いていることがわかる。そしてそれはそのままぼく自身の持つ生きづらさともリンクするものだった。話がまた脱線するといけないので戻していくと、ぼくがそうして書くこと、自分の思いについて記述する理由とはたぶんにそのようにしてウィトゲンシュタインが自分の思いを断片的に哲学として残していったように、ぼく自身が考えたり感じたことを残していくことである意味ではそれがオープンソースのようになって誰かの役に立つことにならないだろうかと目論んでいるからというのがある。ウィトゲンシュタインが自身の生きづらさと格闘した結果が『論理哲学論考』『哲学探究』となったように、ぼくもぼくの日々の喜びや苦しみが日記となって残った後にそれを読んだ誰かが彼ら/彼女たちなりの人生の問題/ミッションと向き合う手続きを始めてくれたら、とも思う。敢えて言えば、これが「いま」思いついた「即席」「急ごしらえ」な答えである。

そして、ここまでの流れをひっくり返すけれど……そうした「世のため人のため」な動機も確かにあるのだけれど、その一方ではぼくはこの日記をぼく自身のためにも書いている。それは月並みな表現になるけれど、書くことを通して自分自身と対話する試みを続けているということにもなる。ぼくはこの日記の他にも英語でメモを書いている。流暢ではありえないにしても英語を使うことで自分自身と向かい合い、突き放して眺めて、カッコつけた言い方をすれば「客体化」「相対化」することで自分の問題を整理していく。今日もぼくは自分の浪費癖について向かい合い、ストレス解消法として間食を摂ること以外の方法を考えたいと思った。英語を使ってチャットに興じていくことがそうしたストレス解消にならないかと思い始め、試みることにした……書くこと(英語・日本語を問わず)はそのようにしてぼくにとっての大事なストレス解消法となっている。自分自身と向き合い、自分自身を癒やすために書くことが同時に他人にも役立ちうるものとして機能し始めたら、と思う。そうしてわずかばかりでも「読み物」として娯楽を提供できたら、それが幸せなのかなとも思うのだった。