跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/09/06 BGM: 小沢健二 - 天使たちのシーン

今日は休みだった。朝、ひさびさにclubhouseを使って哲学的なルームに入る。そしてそこでバートランド・ラッセル『幸福論』の一節について話を深めていく。「ぼくたちがぼくたち自身に対して寄せている関心と同じだけの関心を、他人がぼくたちに対して持っているとは期待してはならない」(拙訳)という格率からぼくたちが持つべき自意識について考えた。それは決して難しい話ではなく、どんなに仕事や勉強ができても最低限の身だしなみがなっていない人は端的に「闇が深い」というような話だ。たとえば(羽生善治ばりに)寝癖がひどい、爪を切っていない、ひげを剃っていない、などなど。そこから発達障害に関しても話が及んで、ぼくも自分自身が発達障害者であることを話してしまった。ゆえに「闇が深い」……ぼく自身散髪だって髪型にこだわりがないのでワンシーズンに一度行く程度だし、部屋の片付けもできていなければ財布だってレシートですぐパンパンになってしまう人間である。そうした他人への過度の無関心は、ぼくから言えば「外」「他人」をどのように捉えているかという(敢えて言えば)脳の器質の問題なのかなとも思う。そうして個々人の脳がそれぞれ違うものを見ているという「認知の個性」(「こなれない」「不自然な」日本語になるが)こそがこの世界のカオスを形作り、ゆえに面白くしているとも思った。

その後、毎週水曜日に参加させてもらっている英会話のミーティングに参加させてもらう。今回はネパール出身でいまシドニーに住んでおられる参加者の方がおられて、彼を中心に話が弾む。ぼくたちは「put up with(我慢する)」という言い回しを使って例文を作った。ぼくはここ最近悩んでいる過食について、「I have to put up with having snacks to save my money(お金を節約するためにスナック菓子を我慢しないといけない)」という文を作る。その後各人が我慢するものについて話し合い、時間がないのにマンガをあれこれ読んでしまうという話になる。そこから、ぼくに対して「それはそうと、どうやって単語を学んでいるんですか」と訊かれたのでその話題につなげたいと思って「実を言うと『ピーナッツ』(スヌーピーが登場するマンガ)を読んだりしています」と話す。これもまた発達障害と関連があると思うのだけれど、ぼくは実はふだんはぜんぜんマンガを読まない。もちろん、ぼくはマンガから学べることは事実上無限でありそれゆえに深遠な表現のジャンルだと思っている。ただぼくの場合は「絵を見ていてもどこをどう楽しめばいいのかわからない」というのが情けない理由なのだった。絵がただゴチャゴチャしているようにしか見えない……だから『ピーナッツ』程度のシンプルなマンガがいちばん楽しめるようである。

昼、近所の図書館に行きそして予約していた柄谷行人『探究I』『探究II』を借りる。もう1冊借りれるので何を借りるか迷ったが、何となくという理由でイアン・マキューアン『最初の恋、最後の儀式』を借りる。その後イオンにいつも通りに行ってそしてそこで弁当を食べる。母と会う約束をしていたので会って、そして次に乗る原付を買う段取りを済ませる。その後、詩を書く気にもなれず今までつけた家計簿を読み返してあらためて「やっぱりスナック菓子や菓子パンを食べすぎているな」と自分の「闇の深さ」を知る。ストレスと、あとはふだん食べる食事が減ったようにも思ってその影響なのだろう。ついつい食べすぎて、あとで血糖値や体重、そして手持ちのお金にその食べ過ぎが反映していることを知る……つくづく自分とは謎だ。自分をコントロールしないといけない、自制しないと思いつつも胃袋や物欲などに動かされてついつい暴走する。思えば発達障害にしたってぼくが望んでそう生まれついたわけではまったくなかったので、そう考えていくとそうして「自分ではどうしようもない(さまざまな)ことがら」に振り回されて一生が終わるのかなあ、と暗澹とした気持ちになった。その後、予約していた歯医者に行ってそして治療をしてもらった。

夜、断酒会に行く。そしてそこで食べ過ぎのこと、母と会ったことなどを話す。スッキリした。その後、昼に書けなかった詩を書いたあと柄谷『探究I』を読む。柄谷はこの試みの中で、ぼくたちのコミュニケーションについてそれがいかに根拠がないか暴いていると思った。まさにいまこのようにしてぼくが言葉を書いているように、ぼくはふだん言葉を発して人と会話をする。でもそうして話される言葉は規則にしたがって話されるわけではなく、話された言葉が規則を事後的に作っていくのだと柄谷は語る……このあたりの議論について話していくとスペースが足りなくなってしまう。それだけ奥深い、興味深い話題に満ちた本だと思った。そしてぼく自身がこうして柄谷やウィトゲンシュタインの哲学に惹かれるのはまさに「会話が伝わることそれ自体が不思議である」ことや「世界は実は多種多様なグループや共同体から成り立つカオスである」ことといった「明白な」ことにいちいち驚いているその不器用さゆえなのだった。そうした不器用さはそして、ぼく自身の発達障害とそこから来る「闇の深さ」とも関連してくる(つまり、もちろんレベルの差は歴然としてあれどぼく自身もまたウィトゲンシュタインや柄谷と同じ問題を背負って生きている)ことを指し示しているのではないか……と不遜にも思ってしまったのである。