跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/06/19 BGM: 小田和正 - ラブ・ストーリーは突然に

今日は遅番だった。ロシアの方がWhatsAppを通してぼくに送って下さった発達障害に関する質問事項について、今朝ぼくは辞書を引き引き翻訳を試みる。このことに関して、ぼくが通っている英会話教室の先生に相談をしてぼくが誤解・誤読をしていないか第三者の目から見てもらえないかと思った。もちろん、基本的にはぼく自身の力でこのことは応対するつもりでいるのだけれどそれでも仮に致命的な誤解・誤読があった場合、目も当てられない状態に陥る可能性だってある。LINEのメッセージで頼んだところ、先生は快く了承して下さったのでありがたく思う。ぼくとしてはこの件、できるだけのことをしたい。そのロシアの女性がいったいどんな状況で日々暮らしておられるのか皆目わからないけれど、ぼく自身過去に発達障害を抱えて孤独に生きるしかなく、したがって(いつもの話になるけれど)酒に溺れて泣き暮らしていたことを思い出すと「他人事」とは思えないと思った。発達障害を考えるミーティングの代表の方にも彼女のメッセージをぼくなりに和訳したものをLINEでお送りする。いったいどうなるのか。ぼくなりにベストを尽くしたい。

そして昼休みにぼくがランチとして食べた寿司の写真をその女性とシェアしたりして、ふと海を隔てたまだ見ぬロシアのことを思った。そして「こんなことが起こりうるものなのか」と感慨に耽ってしまった……職場の同僚にはこんなことはいっさい話していない。話がデカすぎるので誰も真面目に取り合ってくれないに決まっている(そんなことを言い出せば、職場の人はぼくが早稲田大学なんてところを出たこともぜんぜん知らないはずだ)。まあ、世の中そんなものだ。ああ、33歳の時に発達障害とわかり、40になって発達障害を考えるミーティングに参加するようになり、そこでぼくが「人生の師」と思っている方と出会い、その方の娘さんに(片思いで終わったにせよ)恋をしたりして……思えばそんな風にしてすったもんだがあったけれど、実に楽しい時間を過ごして今まで生きてきたと思う。少なくともそのミーティングを通してぼくは金銭の管理や仕事の心構え、生活のリズム作りなどを練り上げてこられたと自負しているのだった。ロシアの女性にもこのことをお伝えしたいと思う。

松任谷由実ではないが、ふと「どうしてぼくたちは出会ってしまったのだろう」とまたしても感慨に耽ってしまった……過去に、こんな狭い町で一生を終わるしかないんだと絶望に浸りひたすら泣き暮らしていた日々を思い出す。その時の孤独を思い、ロシアの地で苦しんでいる女性のことを思い、するとぼくも「彼女のために『ひと肌脱ぐ』ことはできないか」と思ってしまい……ぼくは決して優しい人間ではない。いつも書いているけれど、ほんとうのぼくはもっと腹黒くて意地悪でひねくれている、ケダモノじみたエッチなエロジジイというか、つまりは独身の中年男に過ぎない。これは謙遜でも自虐でもなく誰が見たってわかる単純明快な事実である。でも、そんなぼくの中にあるのが過去にずっといじめに遭ったり、その後就職で大失敗して酒に溺れて薬をたくさん飲んで死にかけたりして、トラウマチックな思いに苦しめられてきた経験であることもまた疑いえない事実だ。もっとも、今の日本にはこんなぼくのような、腸が煮えくり返る思いで生きているロスジェネの人間はゴロゴロいるだろうとは思うけど。

夕方、休み時間に邵丹『翻訳を産む文学、文学を産む翻訳』を少し読む。まだ頭の部分しか読めていないのだけれど、村上春樹の文学について彼がカート・ヴォネガットリチャード・ブローティガンを、特に「和訳」(つまり熟達した翻訳者の達意の日本語)を通して読みこなして春樹的な文体を練り上げたのだということが的確に指摘されていて、実に読ませる。春樹がアメリカ文学から影響を受けてきたことは多くの論者が指摘するところだけれど、その指摘は「彼は英語が堪能で、チャンドラーやフィッツジェラルドのペーパーバックを多読して文体を作り上げたらしい」という少し違った次元のものだった(とぼくは受け取る)。この書き手は中国の方らしいが、こうした「別の角度」から春樹の文学に切り込めるのは(こんなひねくれた捉え方は嫌がられると思うけれど)そうしたアウトサイダーとしての出自ゆえではないか……と考えて、いや違うかな、と思い直す。春樹の文学はもっとグローバルで開かれたものと言っても言い過ぎではなく、ぼくだって誰だって充分に一読者として歓迎されているのだ、と。