跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/07/28 BGM: OPUS III - I Talk To The Wind

今日は遅番だった。朝、いつものようにイオンのフードコートで詩を書く。仕事をしながら、空いた1時間ほどの時間を使って詩をコツコツ書いていくのがぼくのスタイルである。さながら公務員のように規則正しく、勤勉に書いていく。詩人や作家というととかく破天荒というかハチャメチャな生き方をした人たちがいるけれど、彼らのような「才」はぼくにはないことをぼくは知っている。ぼくは酒も呑めないし、ドラッグだってやらない。コーヒーを飲むくらいだけれど、そこから「非日常」「超俗」とした境地を垣間見ることにも興味を持っていない。シラフで過ごす普通の生活、平々凡々とした暮らしの中から生まれる詩にこそ興味を持つ。詩を書く時はいつも英語の詩から書き始める。どうやって韻を踏むか考えて、そこから詩をワンセンテンスずつ組み立てていく。そしてそれをノートに下書きして、仕事の合間の休憩時間に清書する。それを帰宅後ブログにアップロードするという段取りを続けている。これは「創作」というより一種の「作業」「タスク」なのかもしれない。神秘のかけらもない……でも、そうした「作業」「タスク」の中から生まれるものも確かにあると信じる。

昨日の日記について、ぼくの友だちのロシアのビクトリアさんが喜んで下さった。ぼくの「成功」について……WhatsAppで届いた彼女からのメッセージを読み、少し泣いてしまった。ここまで長い道のりを歩いてきたというか、生き延びたことを実に重畳なことと思う。だが、1人ではなし得なかったことだとも思った。ジョブコーチの方と共同作業で職場の問題について受け留め、対峙してきたことを思い出す。あるいは発達障害を考えるミーティングで他のメンバーたちと一緒にワイワイとさまざまな問題(お金の使い方や気分の調整/マネジメントの仕方など)を考えてきた。それらは今でもぼくの中で活きている。ミーティングで出会った友だち(ぼくからすれば「畏友」)が居なければ、ぼくはとうの昔につぶれてしまっていたに違いない。そのことをLINEで他のメンバーたちに伝えた。彼らに捧げる詩を書く、というアイデアについても考えてみた。彼らの存在、彼らの優しさを通してぼくはこの世界がすばらしい場所であり得ること、この人生が生きるに値するものであることを思い知ったようにも思った……たしかにロクでもないこともあるけれど、でもそれでも「捨てたもんじゃない」とも思えるようになったのだった。

思えば、断酒だってぼくは自分1人でなし得たことではない。断酒会では「我慢の断酒は限界がある」「1人では断酒は無理」と学ぶ。意志の力を強く以て断酒を継続させようとするといずれ無理が来る。それより、他のメンバーたちとのつながりによって自分を安定させて「ゆるやかに」断酒を継続させようとするのが望ましい、ということだ。ぼく自身そうして断酒会に参加させてもらって、これといった無理も感じずにスムーズに飲酒欲求を解消させ欲求不満と向き合うことができているのを感じている。断酒以外ではぼくが今ハマっている創作にしたって、読書でさえある意味では「他者」なくしては成り立たないことと言えるのかもしれないとさえ思った。もちろん書く時や読む時はぼくは努めて孤独になることが求められる。一対一で自分と向き合い、そこから聞こえてくる言葉に耳を澄ませることが求められる。だが、そうして得た言葉は何かの形で「他者」とシェアされなければならない。書いたものは読者によって読まれることで完結する(あるいは、そうして読者に読まれてその読者の中で「受容」された時が新たな「始まり」となりうる)。その単純な真理にようやく思い至ったように思う。

そう考えていくと、断酒や創作といったものは「コラボ」「共同作業」なのだなとも思う。ぼくは人は基本的に(もちろんこのぼくも含めて)弱っちいものだと考えている。その弱っちい存在が人とつながること、人と「コラボ」することで思わぬ偉業を生み出すものだ、と……あるいは村上春樹が『風の歌を聴け』で語った「文明とは伝達である」というセオリーについても考えが及ぶ。「伝達」とはつまり相手が居ないと成り立たない。相手を求めてぼくたちは創作を行い、コミュニケーションを渇望する。これもまた「人とつながること」だ……そう考えていくと、ぼくは英語の勉強を通して人を(はばかりながら)助けることが「橋」になることだと思っていた。だけどぼくの創作や読書、そしてその活動をシェアすることもまた「橋」として働くことにつながるのかなとも考えられる。「橋」として人を「コネクト」する。過去に自分はずっと自意識を太らせて、しかし怯懦に(つまり臆病に)生きていたのを思い出す。何だか中島敦の『山月記』のような話になってきたが、ぼくはたぶん「孤高の天才」というタマではない。それより人とつながり、人と「コラボ」を楽しむ方が性に合っているのだろうと思う。時には痛い目にも遭うけれど。