跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/09/03 BGM: Wes Montgomery - Tequila

今日は休みだった。市の防災センターに行きそこで市の国際交流協会が催しているイベントである「お茶ットルーム」に参加する。市に住む外国人の方と日本人であるぼくたちが親睦を深める、定期的に行われるこのイベントをぼくはいつも心待ちにしているのだけれど今回も楽しむことができた。今回は琴の演奏を楽しむ(日本人の講師の方が英語で話しておられて、そのプロ意識に感服した)。そしてベトナムから来られている方がベトナムの観光名所や食文化について話して下さった。その後、実際に琴を演奏させてもらったりして琴の音の深みに触れられて、有意義に過ごした。次回の英会話教室が10月から行われるということも知り、スケジュール面で行けるようならグループホームの施設長の方にも話してお金のことを相談したいと思った。その後、片付けをしたのだけれどそこはそれ、発達障害者の悲しき性で椅子や机をどこに片付けていいかわからずトンチンカンなことをしてしまい、帰り道で自己嫌悪に陥る。そういうこともある、とわかってはいるけれど……その後イオンに行ってメモを書く。「自分とは何だろう」「どうしてこんなトンチンカンなことをしてしまうのだろう」とあれこれ考え込んでしまう。そうして傷口をいじるようなことをしても余計に治りが遅くなるだけとわかっていてもいじってしまう。それもまた悲しき性なのだった。

図書館に行く。きたやまおさむ鷲田清一の本を借りるか迷ったのだけれど、結局そうした自己嫌悪が尾を引いていたので大庭健『私はどうして私なのか』を借りる。読み進めて、あらためて「言葉でこのぼく自身を捉えること」の難しさについて考える。「ぼくとは何なのだろう」と考えても「端的にここにいるのがぼくだ」「今こうやって考えているのがぼくだ」としか答えようがない。それでも「そんなぼく」をどうリアルに捉えるか、認識するかは永遠の課題だ……ぼくがそうして自己嫌悪に陥るのは単純に「自分がイメージしているぼく」と「他人が語るぼく」の間の「ズレ」「乖離」に苦しむからなのだけれど(その「他人が語るぼく」にしたって、職場では「使えない人」「よくわからない人」だけれどプライベートでは「英語が達者」「本好き」と思われていたりしてここでも「ズレ」がある)、そうした「ズレ」を「どう思われようが自分」と居直るのも気が引ける。その昔「頭がおかしい」「ひねくれ者」とさんざっぱら罵られた日々を思い出してしまい、ぼく自身も「こんなぼくをまるごと変えたい」「理想のぼくでありたい」と思ってあれこれ頑張ったことを思い出した。いま思えば、ぼくに必要なのは「ほどほど」の自己愛と自尊感情だったのだと思う。そうした「自分を誇れる心理」があればおのずと「人の言葉」にも耳を傾けられると信じる。

bingxiang.hatenablog.com

夜、本来の締め切りを一週間も(!)破っていたミーティングの資料の整理と清書を行う。その後、友だちであるロシアのビクトリアさんにもメッセージを送る。この2つのタスクをぼくはここ最近ずっと先延ばしにしてしまっていた。なのでようやくそうした締め切りから解放されてホッとする。その後、荒川洋治『世に出ないことば』を読む。考えてみれば荒川洋治の書いたものをまとめて読むのも久しぶりのことだ。荒川洋治は「稀代の読書家」「読み巧者」であるとぼくなんかは思うのだけれど、そうした安直な形容をこの書き手は嫌うかもしれない。読み進めて、荒川があらためて「こだわり」を大事にする書き手であることを学ぶ。俗にいう「何でも読む」「無節操」な「懐の深い」人(高橋源一郎を思い出す)ではなく、いろいろな本を精読・多読しながらその本の選択眼もスジを通しており書くものにも「こだわり」「美学」を貫きたいと思う、そうしたいぶし銀の「職人芸」が感じ取れるのだ。それでいて堅苦しさも押し付けがましさもない。読んでいて肩が凝らない……とは言い過ぎかもしれないが、文を書くというか「つむぐ」人の「プロ意識」が感じ取れる清々しい文に触れられたと思った。

と書いて……多読なのはこのぼく自身であるとも思い至る。思えば子どもの頃から「生身の人間は言うことがあれこれ変わるけれど、本は変わらない」と思ったことがそうした「読書癖」(池澤夏樹)を作り上げたのだ……本はぼくの言いたいことを笑わないで聞いてくれたし、何を投影してもサンドバッグになってくれた。もし可能なら、いまでもぼくはそんなふうに本だけを相手にして引きこもって生きることを選んでいたのかもしれない。人間は信用できないデタラメな存在だ……実を言うといまでもそんな風な、あえて大づかみに言ってしまえば「世界の不確かさ」に触れて苦しむことがあるのだった。「人が何を考えているか『確かなこと』がわからない」「いやぼくだって、ぼくが明日(それどころか、5分後でさえ)何を考えているか『確かなこと』がわからない」「そんなことを言い出せば、またコロナ禍みたいなことが起こるのかだって『確かなこと』がわからない」、とあれこれ思い悩んでしまう。世界はカオスで豊かなものであるということ、そしてその「不確かさ」に耐えることが大事だということは宮台真司ウィトゲンシュタインなどを読んで学んだつもりなのだけれど、まだまだ修行が足りないのかなとも思ったのだった。